2011年11月1日火曜日

リビア-カダフィの死

以下に10月21日にアルジャジーラ(Aljazeera)のオピニオン欄に掲載されたロバート・グレイナー(Robert Greinier)のカダフィの死に関する文章*の邦訳を載せる**。
*Robert Greiner, 10 Oct 2011,"Gaddafi: Death of an era, dawn of an era", Aljazeera English
**例によって翻訳の許可をとってないので、抗議があれば取り下げる。

彼の論説を取り上げたのは2回目(1回目はこちら)。アルジャジーラのwebサイトによると彼のポストはいずれもよく読まれているようなので人気があるのだろう。

カダフィの死亡は10月20日に発表された。
ポストにもあるように彼は2003年から外交関係の正常化に向けて西側に歩みよっていた。
出所:BBC

以下はBBCに掲載された10月20日時点でのカダフィの家族の行方。家族のすべてが殺されたか(Killed)、逃亡したか(Fled)したか、行方知れずかである。
出所:BBC

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カダフィ:ある時代の死、ある時代の始まり
ロバート・グレイナー

第一報が正しかったためしはほとんどないものだが、もしリビアのモアマル・アブ・ミンヤー・アル・カダフィ大佐の死の際の状況が、報道されたようなものだったとしたら、それは皮肉に満ちた一つの人生にもう一つ、最後の皮肉を提供するものだろう。とても巧みな権力操縦と自分が自国の民衆の希望を具現化しているというファンタジーという組み合わせの上に自身の成功が成り立っていた男が、最後は、大国の軍事介入と彼の悪辣な支配からの自由を望んだ自国の民衆の心からの願望という組み合わせの前に屈したのだ。

カダフィの死はそれ自体とともに様々な考えと見解を提起する。彼が最初に権力の座に就いた1969年の世界は、彼が死んださいの世界とはまったく異なった世界だった。それははるかにシンプルな世界で、その世界では一人の指導者であるカダフィ大佐に率いられ、ちっぽけな6000人程の軍隊の中に埋め込まれた数百人の将校が、しっかりと確立されているかのように思われた体制をほんの2時間のうちに転覆することが可能だった。イドリス王の体制は一つの理由として、汎アラブナショナリストによる革命の時代においてはその存在が不適切なものであったため押しのけられた。現在我々の時代におけるカダフィの死は、革命の再生者、と思われていたものたちが引き継いだ時代の終焉にエクスクラメーション(注:「!」マーク)を与え、今その最後の生き残り達が、アラブの春の盛り上がりとともに打ち倒されつつある。

盲目の谷では一つ目の男が王様である、と言われる。カダフィは彼が信奉した革命の教義について、せいぜい、不完全な理解しか有していなかったかもしれないが、彼は、小さく、貧しく、そして孤立した人々に対し、1960年代そして70年代の時代精神であった当時の極左革命と空想的な氾アラブ社会主義を示した。その手のすべての革命家たちと同様、カダフィが自認した人民主義と平等への献身はまがいものだった。そのかわりに、彼と彼の革命評議会は"国家意思の表明機関"として、"リビア人の政治意識を向上"するために活動した。その意思が彼らの"同志であるリーダー"によって指導された後の時点でのみ、彼はリビアの人々の意思を体現した。
  
ヘンリーキッシンジャーがキプロスのマカリオス大主教について述べたのと同じことを、カダフィについても述べることができるかもれない。彼はこのようなちっぽけな国には偉大すぎる人間だった。明らかに同じような意見を持つものとして、カダフィは、短期間のうちにリビアを、そこを拠点にしてはるかに大きな野心を外国で実現するための安全で簡単に支配できるプラットフォーム、として利用し始めた。彼は間もなく自身の革命的リーダーシップの恩恵、より赤裸々にいうと彼が得た巨額のオイルマネーを地球上の極左、テロリスト、分離独立派からなるごちゃまぜの勢力に授け始めた。その勢力は、アイルランドのIRAから、ドイツの赤軍グループ(注:Baader-Meinhof Gang)や、コロンビアの革命軍や、フィリピンのモロ民族解放戦線に及んだ。

レトリックの上ではパレスチナの大義に大変入れ込んだものにしては不思議なことだが、カダフィのパレスチナとの関係は概ね慎重で、最低限度のものだった。彼とパレスチナのグループとの関係のうち最も持続したものが、ほとんど信じられないくらい機能せず、内部で殺し合いをくりひろげ、社会的な憐れみを誘う、アブニダルのグループとのものだったということは単なる偶然であったはずがない。

その絶え間ない政治的誘導にもかかわらず、悲しくも、彼の素晴らしさが同胞であるアラブの指導者たちから正当に評価されないことに気付き、カダフィはまもなく彼の精力の大半を自国の南に位置するアフリカ諸国に投入することにした。そこでは、貧困と政治制度の基盤の弱さとこの地域特有の宗教的・民族的対立が、このリビアの大佐の移り気なイデオロギーへの熱中と、シニカルにえり好みされた慈善活動と、(注:ガリバー旅行記にでてくる)リリパット人的な軍事的冒険主義からなる風変わりな組み合わせにとって、より一層魅力的なフォーラムの場を提供した。

カダフィがリビアに残した傷跡
けれど、カダフィに固有の病理の組み合わせの結果が、リビア以上に悲惨なほどはっきりとあらわれた場所は存在しなかった。少量の知識はかえって危険である、といわれる。リビアの人々の長期の損失につながったのだが、カダフィは近代の偉大なイデオロギーや哲学的伝統の寄せ集めを、自身の大学2年生程度の理解にもとづき継ぎはぎした。その程度の知識でも、彼による頭痛をもよおさせるような"第三国際理論(注:Third International Theory)"をつくりだすのには充分だった。その理論は自身の現実社会での発現を、大リビアアラブ社会主義人民ジャマーヒーリア国(注:リビアの正式名称)の中にみいだした。互いに重なりあう2,000もの"人民委員会"によってつくりだされた行政的なカオスと社会のアトム化(注:人々の孤立化)は、おそらく、同志であるリーダーに特徴的な政治的操縦と残忍な脅しという組み合わせによる支配に対し、他に類をみないほど影響されやすい環境をつくりだした。

彼が公言している共産主義への生涯にわたる嫌悪にもかかわらず、抜け目なく、野心的なシルト(Sirte)出身の大佐は冷戦と大国間のライバル関係を自身の利益になるよう巧みに利用することができた。それにより彼は、決してそれらの国の野望に対し自身を従属させることなく、大量の兵器をソ連および東側のブロックに属する友好国から手に入れることができた。しかし何よりも重要なことに、その交流により彼は東ドイツが専門性を有しており、自身の長年の生き残りにとって決定的に重要となる能力を身につけることができた。社会的抑圧である。筆者は1980年代から1990年代において、アラブの多数の国出身の人々と多くの交流をもった。けれど筆者は、その期間において、リビアの国民ほど完全かつ徹底的に脅され、怯えさせられた民族には出会わなかった。リビア政府の職員あるいは誰であれ体制に害を与えうる立場にいるものの生活はヘビ穴のなかでの生活だった。同志カダフィは同胞を信じられなかった(注:Brother could not trust brother)。いかなる3人のグループであれ、最低1人は、あとの2人によって、体制への密告者であると想定されざるおえなかった。

振り返ってみれば、ロッカービー事件(注:パンアメリカン航空103便爆破事件)と暴露されたいわゆるWMDプログラムについての責任を認め、(注:西側の)対テロ活動への協力を始めた2003年の、カダフィの西側への大幅な転換は、終わりが近づいているというサインだった。今や疲れ果て、そして息子たちに権力を移譲することに集中することで、もはやカダフィは、その地域でのイデオロギー上の先導者である、と主張することができなかった。いわんや世界においておや。ナセル的なアラブナショナリズムは自然に引きつつあり、アラブ地域での主導的な政治思潮としての位置をイスラム教にとって代わられてから、ずいぶんと時間が経っていた。そしてこのことは彼と彼の狭量で非宗教的な体制に対して直接的な脅威をもたらしていた。最後まで権力の間を泳ぎ回ることがうまかったカダフィには、自分の国内での権力を保持するために、進んで彼の長年の敵である西側と取引する用意があった。

この互いにとって都合のよいものどうしの結婚は、とても狭く高度に戦略的な利害の一致の上に築かれていたので、決して快適なものではなかった。そのような協力は、その時点の情勢下では正当化できたのかもしれないし、実際筆者もこれを支持した。けれど、それが実際にどんなものであったのかも認識されるべきだろう。それは、非常に不完全な世界における嘆かわしい現実への適応だった。リビアと西側の間の交流の開始は最終的な改革のための潜在的手段であり、カダフィ一族の若い構成分子への(注:権力の)推移は、リビアの人々の正当な権利と願いをより多く受け入れる可能性をそれ自身のうちに秘めているかもしれない、と考えた人もいるかもしれない。それよりもむしろ、その国交開始が示唆していたのは、恐ろしいほどに時代遅れで且つ矯正しがたい体制が自身が多数の歴史の潮流に逆らって泳いでいることを発見したことに起因する、防衛姿勢への転換であった。

現在ではカダフィ体制のような体制は、地球上の最も遅れた一部の地域を除きほとんど想像もできない。道路の掃除人が携帯電話を持ち、最も身分の低い市民であっても広い世界と親密につながっている世界は、カダフィ体制のような奇妙な歴史的遺物が生き残れる世界ではない。カダフィがついに死んだという事実それだけでは、リビアの人々は彼らが最も待ち望んだ気高い願望を現実のものにすることはできないだろう。けれど、それはありのままの姿で見られるべきだ。不完全ではあるが、必要であったスタートとして。