2011年11月5日土曜日

ビンラディン・カダフィ・アウラキ及び市民の殺害

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アメリカに残った卓越した分野
グレン・グリーンウォルド Salon.com 2011/10/22

5月1日の午後、オバマ大統領がオサマ・ビンラディンの殺害を発表したさい、彼は聞いていた私を驚愕させ、そして今も引き続き驚愕させていることを述べた。「今夜、我々は再び、アメリカは行うと決めたことはどんなことでも行うことができるということを思い出しました。それこそ我々の歴史の物語なのです。」 過去において、国家のプライドを表すこのような感情は、人間を月に送ったり、病気の治療法を発見したり、何万人もの生活を向上させるようなテクノロジーを創り出したり、大恐慌を活況を呈する中間層に転換させたり、アメリカに固着した不公平を正したりしたさいに引き起こされてきた。けれど、ここでオバマ大統領は、現在において我々に我等の国家の偉大さを思い出させるのは、誰かを狩り出し、その頭蓋に銃弾を撃ち込み、そのうえでその遺体を海に投げ込むことのできる我々の能力である、と宣言したのだ。そして確かに、ホワイトハウスの外やその他の場所で、アメリカ人の大群がその殺害をまるで彼らのスポーツチームがたった今メジャーリーグのチャンピョンシップを獲得したかのように"USA!USA!"という叫びで騒々しく祝った。

ビンラディンの死の次の朝に書いたように、アメリカ人が9/11のさいに目にした大量殺戮を考えれば、このような大喜びは理解できた。けれど、それでもこのエピソードには注目に値し、そして心を悩ませる何かがある。国民を団結させ、胸を踊らせるような国家的な祝賀というこのようなまれな光景は、現在では政府が我々がそれを囲んで踊るための死体をつくりだすことによってのみ可能なのだ。そのさい何人かの人々は、オサマ・ビンラディンは極めて特殊な例であって、いかなる教訓もその死から引き出せないし、引き出すべきではないと示唆した。そのような理由により、普段ならばそのような行為をうけいれがたく感じる多くの人々でさえ、彼の死を並外れた悪の消去(注:the elimination of a singular evil)として誇らしげに祝った。けれどビンラディンのエピソードは決して逸脱でも例外でもないことが明らかであるように思われる。アメリカの市民は、自国の政府が誰かの命を終わらせることに成功したときを除き、国家のプライドを表にだす機会をみつけることがほとんどできないのだから。

ビンラディンの死以降、アメリカが自国の市民であるアンワル・アウラキ(Anwar Awlaki)を(巻き添え被害、という疑わしい主張によってもう一人のアメリカ人と一緒に)暗殺したときにも、我々は同様の歓喜に満ちた反応を目撃した。アウラキは一度もテロリストや国事犯として告訴されたことがなく、またいかなるデュープロセスを経る機会も与えられなかったし、そのうえ政府は自身の告発をサポートするいかなる証拠も公衆に示したことはなかったのだが。その代わりにオバマ政権の高官は、証拠をみせることなく、単に彼は悪いテロリストであることを宣言し、そしてそれが必要なことのすべてだった。同胞であるアメリカ人の大群は、無人攻撃機が彼を発見し殺害した、というニュースを単に承認しただけではなく、そのニュースに喝采を送った。

同様に、アウラキの殺害の前において後においても、アメリカ人は無人攻撃機による何百人もの人間の殺害を、ごく普通に褒め称えている。それらの人々について、テロリストのラベルがアメリカ政府から与えられているという事実以外、アメリカ人は何も知らない。まるでアメリカのミサイルは実際のテロリストにヒットするとき以外には爆発しない、という信念が存在するかのようだ。

そして今、ムアマル・カダフィの死体が写った写真が再度、アメリカのプライドの噴出に拍車をかけている。彼は生きたまま捕えられ、即座に処刑された可能性が極めて高いにもかかわらず。私が以前書いたように、"まっとうな人間ならばカダフィに対して同情を抱けるはずがない、サダムフセインにそのような同情をいだけないのと同様に"。そして40年にわたり、彼の支配下で苦しんできたリビアの人々が(9/11の後のアメリカ人や長年にわたり国内での暴力と武力侵攻を経験してきたイスラム教徒がそうであるように)復讐を渇望するのは理解できる。それでもなお、そしてカダフィやリビアへの干渉についてどう考えるかにかかわらず、無力な捕虜の頭を即座に撃ち抜くのは、いかなる状況においても、考えうるかぎり、もっとも野蛮な行為の一つである。しかしそれにもかかわらず、カダフィのおぞましい死は、今週、アメリカに歓喜と自己正当化の波を引き起こしたのだ。

それがなぜなのかを正確に話すのは難しいが、他の場所ではほとんど見出すことがないのに、政府がつくりだす死体にここまで継続して意義と喜びを見出す国家には重要な何かがある。ブッシュ時代において、私は頻繁に、テロリズムとテロリズムの名によって正当化される権威主義的なラディカリズムをめぐって繰り返される恐怖を煽るような言説が、どのようにアメリカの政治のみならず、その国家の性質を変えていったか(影響を及ぼし堕落させたか)、について書いた。とりわけ、この疑わしい脅威への継続的な執着は、政府がいったん誰かを悪いやつだと宣言すると、彼らに対しておこなわれるあらゆることは、単に正当化されるのみならず、祝福の理由になるというマインドセットをうみだした。それは容疑者引き渡しや、グァンタナモや、広範囲にわたる法律に違反した国内の監視、イラクへの侵略的な戦争、そして世界的規模で拷問を行う体制を正当化するメンテリティだ。テロリストやサダムを支持するのでなければ、どうしてこれらに反対できるんだ?

そのような人格の堕落は、政府が悪いやつの死体をつくりだすたびごとに、起立してよろこび、胸をたたき、正しさやプライドを感じるように市民を条件付けることにより、少なくとも同程度にはうみだされる。最も必要とされ正当化されるときでさえ、人間の命を国家が暴力によって終わらせる行為は憂鬱な、嘆かわしい事柄であるべきだ。恍惚とした反応には血に飢えた何かがある。罪が立証されていないとき(アウラキ)、殺害された人の身元が知れていないとき(無人攻撃機による死者のほとんど)、純粋な獣並の蛮行によって殺されたとき(カダフィ)、そのように反応するのは野蛮人の精神である。しかしながら、現在は9/11から10年以上がたっており、そのとき以来継続して、これがアメリカで支配的なメンタリティだったのだ。ここまで頻繁に自国の政府が展示する最新の死体をとりまいて祝福のダンスになだれこむ市民と国家には何がおこったのだろうか。

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この現象を説明すると同時に、より重要なもの(そしてより有害なもの)にするのは、アメリカの市民には、政治的な祝福や国家的なプライドや国民的なモラルの意義付けを可能にするような大義が他にほとんどない、ということだ。アメリカは、その歴史において始めて国家として衰えつつあるという認識が広まっている。国を指導する機関や政治家への信頼は恐ろしく低い。アメリカは、大規模で慢性的な雇用不足、巨額の負債、すべての産業の喪失、消滅しつつある中流階級、爆発的に拡大する富の不平等、低下する階級間の移動可能性、そして民主主義というよりはるかに寡頭政治に似た深刻に腐敗した政治システムに苦しんでいる。多くの人々にとって、イラク戦争、アブグレイブ監獄、そして自国の政府の用いる拷問の恥辱は引き続き存在している。誰もが、喜ぶことができ、気分がよくなるものを求めているが、アメリカの政治にかかわる機関は現在のところ、このような感情を満足させるために、悪いやつの死体以外に提供できるものがない。

人々の頭蓋に弾丸を撃ち込むことと、空を飛ぶロボットをつかって人々を肉片に吹き飛ばすことは、今でもまだアメリカが他よりも優れているように見える、とても数少ない事柄の一つだ。だから、政治の支配層はアメリカの卓越さと正しさを引き続き確信させるため、それを国民に与えるのだ。しかし、それは有毒な食事であり、短期的な満足をうむかもしれないが、疑いなく長期的な病を引き起こすものだ。

おそらく、これらの死に接しての浮かれ騒ぎが極めて明瞭にするのは、これらがどれほど繰り返され、心の底からのものとなっているか、ということだろう。大統領にとって、権力に対して自国の市民を殺害用の標的にするよう要求することはーしかもそれを完全な秘密のもと、ルールや監視もなくおこなうことはー文字通り権力者が得ることのできるもっとも徹底的な権力の一つである。米国憲法修正第5条による"デュープロセス"の保証は、まさにそれを禁止することを目的にしていたのだ、国事反逆罪という罪状を裁判所の下で証明するよう要求する、憲法の高められた要件がそうであったように。もしジョージ・ブッシュがこの力を得ていたら、この力は彼に反対する進歩派が彼に対して投げかける"憲法をズタズタに引き裂いている"という不平のリストのトップにきていただろう。しかし、これらすべてのことはアウラキの死にさいしての祝賀のなかでは洗い流され、彼は悪いやつだ、だから私は彼が死んでうれしい、という盲目的で儀式のような喚声に中でかき消された。

あるいは、カダフィの死にさいしての恍惚状態(そして陽気さ)について考えてみよう。彼はちっぽけな国を40年間支配してきた男だった。彼は大変不快な独裁者だったが、他に何十人もいる同胞より悪かったわけでは決してなかったし、サダム・フセインやシリアのアサドの水準にもなかった。どちらにせよ、25年前のロナルド・レーガンによる彼に対する暗殺計画を除き、Jamie Omar Yassin指摘するように、誰もカダフィを気にしなかった。反対に、石油と武器をめぐり、西側は彼との間であらゆる種類の協力関係を結んだ。彼に反対するよう強く求める声はどこにもなかった。けれど、アメリカ政府が彼を殺すべき標的にし、彼の死体がつくりだされるや否や、多くのアメリカ人は、まるで彼が生き、呼吸をしているアドルフ・ヒトラーの生まれ変わりであり、倫理の基本原則において、彼がこれ以上生きていることを許容することはできない、とでもいうかのごとく反応した。アメリカが何年も何年もあらゆる形で協力してきた相手なのに。悪いやつを自国が殺したことを祝うことには心理的、感情的な利点、それも大きな利点、がある。その手の祝いは、それを得ようとする熱望をうみだすと同時に、その喜びを曇らせる反対や懸念に対し耳を傾けなくさせる。

この反応は心の底からのものであったため、おこったことについての疑問(カダフィは拷問され、そして/または降伏後即座に処刑されたのでなないのか?)を呈するものは誰であろうと、例によって、正当な仕返しの代わりにつまらない、不適切な質問に執着し、バーティにけちをつける独裁者の味方として非難された(拷問と無期限の拘束に反対するものが"親テロリスト"として、イラク戦争に反対するものが"親フセイン"として非難されたように、それに、ビンラディンの死にまつわる状況について疑問に思ったり、政府の過ちについて反対したものが、本当に、"黙って先へ進むんだよ"言われたのと同様だ)。これらの殺害は激しく感情的な満足感の波を爆発させた(加えて軍事的、政治的リーダーシップへの感謝も)。基本的に、これらは道徳劇か、より現代的にいえば、アドベンチャー映画のクライマックスシーンである。それは、フィルムを台無しにしようとして呈されるうっとうしい叱責が指摘する、前例や適法性や倫理や事実の誤認に関するめそめそとした不平を簡単に踏み潰す。

何が気前よく注意をひきつけたか、そして何が注意をひきつけなかったかについて、とても心を安堵させる事情も存在する。カダフィは今週つくられた唯一の死体ではなかった。オバマの無人攻撃機のうちの一機によりイエメンで殺されたアンワル・アウラキ16歳の子供と17歳のいとこが彼の死体に加わった。この事故は、同国内で2009年にアメリカのクラスター爆弾で殺された多くの子供、アフガニスタンとパキスタンで射撃と空爆によって殺されたすべての子供、そしてNATOによるリビア空爆により殺されたいまだに数も分からない死者と同様、完全に無視された。これらの死は悪いやつらの死のようには、モラルや力や正しさに関する高揚した感情を与えない。何かがあるとすれば、これらの死は居心地の悪さを生じさせる。だから我々はそれを無視することに合意し、それがおこらなかったかのように振る舞う。そして何より、我々が、我々の政治的なリーダーシップや大義ある殺し、その他のほぼすべて、とりわけ我々自身を評価するさいの評価にそれが影響を与えることを拒む。

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これらの死のお祝いについて著しく顕著なのは、それが今やどれほど広範囲にわたるか、ということだ。そのどれに対しても反対や、あるいは疑問の声さえほとんどあがらない。それは基本的に国家的なコンセンサスである。なぜならば共和党は常に宣言された(つまり非難された)外国人テロリストの生命を何の説明責任もなしに終わらせることに熱中し、多くの民主党員も、民主党出身の大統領のもとで、それに対して好意的だからだ。私はジェフリー・ゴールドバーグ(Jeffrey Goldberg)2007年のNew Yorkerに載せた以下の文章をもとにして、進歩派がどれほど倦むことなくジョー・リーバーマン(Joe Lieberman)をあざけったかを鮮明に思い出すことができる。
リーバーマンはアメリカのパワーを表す表現が好きだ。数年前私はワシントンの映画館にいて、数列前にリーバーマンと彼の妻、Hadassah、がいることに気付いた。映画は"エネミー・ライン"という映画で、その映画のなかでオーエン・ウィルソンはボスニアで撃ち落とされたアメリカ軍のパイロットを演じている。アメリカ軍がスクリーン上で敵を撃墜するたびに、リーバーマンはガッツポーズをして"Year"とか"All right"とか口にした。
でもこれは、ビン・ラディンやアウラキやカダフィの死や、オバマ大統領の指揮下で何万回と繰り返し打ち上げられ、彼らが決して聞いたことがない名前の人々を殺害した無人攻撃機による爆撃によってうみだされた死に接したさい、多くの進歩派の間で見られた感情そのままだ。より驚くべきことは、その手の死を祝う反応は、有罪判決をうけた殺人犯を殺すことは野蛮であり、国家に対していきすぎた権力を与え、国民の文化を粗野にするという理由で死刑を嫌悪する人々から表明されているということだ。
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その手のリーバーマンのわめき声のようなものは、オバマの外交政策の偉大さについて言い立てるコメンテーターの発言の中に、ほぼ毎日のように私が出くわすのと同じ感情だ。次の例はアンドリューサリバン(Andrew Sullivan)がブッシュやレーガンやサッチャーの偉大さを祝うのと同じやりかたでオバマの偉大さを祝して書いたものだ。"世界から6か月でオサマ・ビンラディンとアンワル・アウラキとカダフィを取り除いた。もしオバマが共和党員だったら、今頃ラシュモア山(注:ラシュモア山についてはここを参照)に叙されていただろう"。サリバンはまたオバマの偉大さを言い立てる読者からの投稿をもとに同種の聖人伝を発表しているが、その読者によると大統領の偉大さはある程度まで、"彼がいかにして憎むべきカダフィという暴君をし止め、アルカイーダノのリーダーすべてを殺害したか。そして彼がオサマ・ビンラディンを抹殺したやり方はアメリカの歴史上最も勇敢な軍事行動の一つとして記憶される"、という点に由来している。

これが外交政策の偉大さが確立されるやりかたなのだ。皇帝がどれだけの首を槍の穂先に掲げてみせることができるかが。大統領は世界のいたるところで、彼が殺したいと思うものを簡単に殺すことができる(いかなく監視や透明性や説明責任もなく、いかなる証拠を提出することもなく、彼らをつかまえようと試みる義務もなく、そしてこれらの殺害を正当化するいかなる原則を説明する必要もなく)だけではなく、そうすることによって祝福される。そしてこの虐殺によってつくりだされた無実の人々の死体の山(ティーンエイジャー、幼児、無実の男女の)は単に無視される。これがジェレミー・スカヒル(Jeremy Scahill)が昨夜ツイッターを書いたさいに意図していたことだ。"アメリカ何でもあり(注:America, Fuck Yeah!)が俺たちの外交政策だ"。そしてクリス・ハイエス(Chris Hayes)が以下を書いた時にはこのようなことを念頭においていた。"私は、我々が殺した人々のことを絶え間なく祝うのは国家の魂にとってよいことではないと思う。"

殺した人たちに関し絶え間なく浮かれ騒ぎ、彼らの亡骸を取り囲んでダンスをするのは今や、我々の国民文化を形づくる儀式のうち、もっとも重要で且つ普及しているものの一つだ。オバマの遺産のうちもっとも重要なものの一つはこの儀式が完全に超党派的になった、ということだ。そしてこれが近いうちにどれだけ変わるかを知るのは困難だ。一度道を下りていったものにとって、向きをかえ、その道を戻ることは難しい。それは個人と国家の両方にとってそうなのだ。


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【付け足し】
上はSalon.comにのったグレン・グリーンウォルド(Glenn Greenwald)文章:アメリカに残った卓越した分野(A remaining realm of American excellence)の邦訳*
*Glenn Greenwald, Oct 22th 2011, "A remaining realm of American excellence", Salon web
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グリーンウォルド(グリーンワルドとも表記される)は弁護士でコラムニスト兼ブロガー。ブッシュ政権が9/11を政治的に利用し反テロリストという名目のもと巨大すぎる権力を手にし、それをなんのチェックもなしに行使していることや(この権力はオバマ政権になっても続いている)、アメリカのエリート達がその他の階層と違う待遇を法的にうけていることを批判したりしている。政治的な分類としてはどちらかといえばリベラルに分類されるだろう(彼自身はこの類の分類を拒否している)。
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明晰で論戦にも強く特に憲法を含む法律に精通しておりアメリカの政治評論家のなかでも注目されている存在なので、じきに日本でも著書(直近のものをいれて既に4冊でている)が発売されるはず。The Economistのブログにも紹介がある。

文中にでてくる無人攻撃機(drone)は、文字通りコックピットに人を乗せず自動操向する航空機が地上を爆撃するのだが、誤爆の問題を含め、あまりにも非人道的ではないかという非難があり、使用が合法なのかどうか世界的に議論の最中。ただオバマ政権はこれを戦場に大規模に配備しており、今後の戦争において拡大が予想される兵器(↓)。
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ビンラディンは2011年5月1日、アウラキ(Awlaki)は9月30日、カダフィは10月20日(近辺)に殺害された。
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アウラキ殺害のケースは彼が米国市民であり、概ね以下のような経緯でのものであったため、米国内で議論をまきおこした。
①米国市民であるアウラキは米政府からアルカイダ系組織の指導的人物と認定され、政府が指定するテロリストリストに載った
②これをもとにオバマ政権は国内での起訴手続きを一切経ることなく(政権は彼がテロリストだという証拠すらも一切示していない)、アウラキが当時滞在していたイエメン上空に上記の無人攻撃機をとばし
③イエメン政府の許可を一切とらず空爆によりアウラキを殺害(しかもおそらくそばにいたほかの人間も巻き添え)した。