2011年11月16日水曜日

織田信長と南蛮美術

少し前だが、サントリー美術館で現在開催されている「南蛮美術の光と影」展に行ってきた。これが大変面白かったので、以下に絵をみて考えたことを当時の時代背景とあわせて書いてみる。
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2つの世界】
1549年にザビエルが鹿児島に着いた時、日本は戦国時代だった。期間の区切りは色々だが、1467年の応仁の乱から1568年に織田信長が京都に上洛するまでの約100年間は大まかに戦国時代とよばれる。この時代、日本各地には小領主としての戦国大名が乱立し、他国との戦争や領内の権力闘争にあけくれた。親が子供を、時には子が親を殺した。領主が部下を殺し、部下が領主を殺した。ある領主が他の地方を滅ぼし、その地方の領主から部下にいたるまで皆殺しにした。農民は領主の意のままに斬られた。領主につかえる武士も同様である。頻繁な飢饉によって餓死が発生した。飢饉がおこらなくても大人も子供も男も女も死んだ。異常気象が毎年のようにおこったという説もある。庶民の生活が悲惨なものだったことは間違いない。こんな時代の末期、海を越え、日本にキリスト教の宣教師がやってきた。

宣教師たちには、この時代の日本にやってくる理由があった。

16世紀はルネサンスと宗教改革によりヨーロッパ社会に大激変が訪れ、民衆の統治原理として宗教に代わり王権の地位が台頭した時代だったが、この時代以前のヨーロッパでは、国境による文化や経済の区切りはまだ非常に曖昧だった。人はカトリックの神の下にあり、国籍とそれを背景とする国家は現在ほど強く意識されなかった。各地には貴族が群居していた。王はいたがせいぜい諸侯の筆頭くらいの地位だった。そのようななかでヨーロッパの人々が仰ぎ見たのはヨーロッパの普遍宗教であるカトリックであり、その頂点に位置するローマ教皇庁だった。キリスト教の一教派であるカトリックは、はるか昔(313年の皇帝コンスタンティヌスによるキリスト教の公認)から約1200年もヨーロッパの普遍宗教だった。
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16世紀から少し時代をさかのぼるが、カトリックの権勢拡大について少しだけ。13世紀にローマに教皇庁を移したボニファティウス8世(1234-1303)は罪の救済を約束する免罪符(天国にいったさいに救済される)を売りに出し、教会はそのお金で土地を買い領地を広げた。この教皇以後ローマ教皇庁は世俗的な権力を拡大していき、地上の皇帝にも喩えられるようになった。あるときこの教皇の部下が「神聖ローマ帝国皇帝のドイツ皇帝が」といいかけたさいにこの教皇が「私が皇帝である。」と述べたという逸話がある。この教皇はフィレンツェに共和制の思潮が起こったさいこれを禁じるためフィレンツェを弾圧し、ダンテはそれを生涯にわたって批判している(ダンテはフィレンツェ出身)。

こうしてローマ教会の権勢は拡大をつづけたが、それとともにカトリックの堕落を指摘する声(「キリスト教はローマに近づくほど堕落する」)も挙がるようになる。1517年ドイツのマルティン・ルターがはじめたプロテスタント運動は地上世界を差配するものとしてのカトリックの堕落を痛烈に批判し、16世紀後半から17世紀前半にかけてカトリック陣営とプロテスタント陣営の間のヨーロッパを二分した大戦争がおこった。ここから教会の権力が及ばない場所としての国民国家が成立してくる。

そして、プロテスタントの抗議に対してカトリック内部からも教会を刷新しようとする動きが現れる。この結果カトリックの内部でイグナチヨ・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル等が1534年に結成したイエズス会の地位が上昇した。イエズス会の理念は、ちょうど大航海時代に入っていたヨーロッパの潮流に対応するように、ヨーロッパを超えた世界への布教であり「世界のどこへでも、もっとも困難な、異教の地にこそ」布教をおこなうことを目的に掲げていた。会の中心であったロヨラやザビエルが大航海時代を先導したスペイン出身であったことは象徴的である。そして教皇への絶対的な忠誠を教義として掲げ、世界布教を志向したこの会を、当時の教皇パウルス三世は公認し、支持した。カトリックが宗教戦争によりヨーロッパで失った領土と神の栄光の回復を果たすため、イエズス会は大航海時代の海に乗り出し、ザビエルは1549年日本に辿り着いた。ちなみに今回の展示にはザビエルの有名な肖像画(↓)も含まれていた。
【織田信長と宣教師】
当時混乱の極みにあった日本にたどりついたイエズス会宣教師たちが布教したキリスト教は、爆発的に拡大した。「伝道後数十年にして信者が九州の全人口の30%を超える30万人を超した」(「クワトロ・ラガッツィ」)。この布教には織田信長という一人の特異な人物の庇護が大きな役割を果たした。この時代の日本のキリスト教は織田信長とともに興隆し、その死とともに未来を絶たれた。

ルイス・フロイスは1549年に堺で信長に出会い、その後何度も信長と会見しており、信長についての記録(「フロイス日本史」)を残している。
「中背痩躯で、髪は少なく、声ははなはだ快調、きわめて戦争を好み、武芸に専心し、名誉心強く、義に厳しい。」  
「部下の進言にほとんど左右されることがなく、全然ないといってよい。皆から極度に恐れられ、尊敬されていた。」   
「酒を飲まない。食事も適度、行動を何物にも拘束されない、その見解は尊大不遜」 
「彼にはかつて当主国を支配した者にはほとんど見られなかった特別な一事があった。それは日本の偶像である神や仏に対する葬式や信心をいっさい無視したことである。」(「フロイス日本史2,3」)
戦争好きで残忍な癇癪持ちであり、部下の意見など一切考慮しなかった尊大不遜な信長は、キリストの神も日本の仏も信じていなかったにもかかわらずキリスト教を庇護し、布教の自由を与えた。
「仏僧の大敵であるこの残忍な君主が、神、仏、その他日本のすべての宗派に対し我らが反対の教えを説いていることを承知しているとはいえ、我らに対してはいとも大度に親切に振る舞っているのははなはだ注目すべきことである。」(「フロイス日本史3」)
信長は自身が構想し、建設していた安土城(場所は現在の滋賀県)の城下町に、キリスト教会を建設する許可を与えた。信長公記の解説によると、信長はこの安土城下の城下町を保護するため、近代の都市計画に極めて近い性格を持った十三条の掟書という「都市法」をつくり、高利貸業者や関連する都市の商工業者を保護したそうだ。そして、「信長は安土にいかなる宗教施設も建立させなかったにもかかわらず、キリスト教会と住院の建立だけを許可し、しかも、城山のふもとに建てることを許可した」(「クワトロラガッツィ」)。後に火災により安土城とともに焼けてしまったこの教会は「信長の屋敷についで安土でもっとも豪華」だったそうだ。焼けてしまったこの安土城とその城下が、本当はどのような姿であったのか現在に至るまで正確にはわかっていない。実は信長は当時の狩野永徳に、この安土城とその城下を描写した屏風を作成させ、それをローマ教皇へ送っている。屏風の存在自体はローマ教皇庁で確認されているが、現在に至るまでその屏風はバチカンで見つかっていない(以下は想像で描かれたレプリカ)。
イエズス会は信長の庇護をうけて勢力を拡大したが、イエズス会のフロイスでさえ信長を帰依させることができるとは思っていなかった。フロイスは信長が自身を神であると述べたと書いている。
「彼は時には説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫ることがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常のもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言したように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと思うに至った。」(「フロイス日本史3」)
自身を神といってのける「傲慢」は、神の従順な使途であり、その布教のために一生を捧げていたフロイスには到底受け入れられなかっただろう。

フロイスの日本史に描かれる信長は、仏僧を含む敵に対し残忍な大量虐殺を行う一方、近代的な統治者としての政治家/経営者の顔も併せ持っている。
「今まで彼は神や仏に一片の信心すらも持ち合わせていないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏像を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、そのすべての宗派の者どもは意気消沈していた。」 
「彼は都から安土まで道路を作ったが、それは十四里ほどあり、庭地のように平坦であって、道路にあたる岩山や険しい山地を切り開いたのである。(略)またすべての通行人が足を濡らさずに通れるように、巨大で、かつ高度の技術を必要とする橋梁が渡された。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(略)彼が統治し始めるまでは、道路には強権が発動され、また強制的に課税されていたが、彼はすべてを解放し、何ら税金を支払わなくてよいようにしたので、庶民の心をいっそう把握することになった」(フロイス日本史3) 
イエズス会の日本における布教は、信長の人生の絶頂期でもある1570年代の後半から明智光秀による暗殺(1582年)と期を一にして絶頂をむかえ、信長の死とともに終わった。信長の最後について信長公記には以下のようにある。
信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其後御鑓にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引退き、是迄御そばに女共付きそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ、追出させられ、既に御殿に火を懸け焼来り候。御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、殿中奥深く入り給い、内よりも御南戸の口を引立て無情御腹めされ、(「信長公器」)
美術史家の若桑みどりは信長のキリスト教庇護について、信長はアジアを征服し、「世界帝国の王」となることを考えており、キリスト教の庇護は彼のアジア征服構想と直結していたのではないか、と述べている。
「自分がキリスト教を保護する日本国の国王となり、かつ東アジアの帝国の王となることは、スペイン・ポルトガル王がやっていることとまったく同じである。その国際事情を彼は足しげく安土の教会に通って神父から聞いていた。フロイスは信長について「恐ろしいまでに傲岸不遜」と書いている。その目が世界を見ているのならば、これほど傲岸不遜なことはない。もはやどのような同時代人とも同じ次元にいないのである。」(「クワトロ・ラガッツィ」)
南蛮美術は、このような壮大な構想と特異な個性を併せもつ一人の戦国大名と、自らの教義の危機に瀕しながら大航海時代の海に乗り出した宣教師たちとの出会いが生み出した美術である。
「以前から私は、南蛮図のなかでも非常に有名な「泰西王侯図」や「世界都市図」などを信長マインドなジャンルだと思っている。(略)これらの絵の発想は鎖国以前のものであり、とくに織田時代のものである。(略)同じころに制作された世界地図屏風とともに、日本絵画史のなかでもたいへんに特異なこの一群の異国図は、島国日本が世界を認識したある光彩に満ちた短い時期の貴重な記憶である。」(「クアトロ・ラガッツィ」)
【南蛮美術ともう一つの日本】
南蛮美術の前にたつと「信長が死ななかった日本」について考える。信長が本当に「世界の王」になろうとしたのならば、彼は中国や東アジアで本格的な戦争を引き起こしただろうし、そうなったさいの日本が、今日ある日本であったという保証はどこにもないが、「信長が死ななかった日本」は、秀吉から家康に引き継がれ徳川時代に完成した、洗練されてはいるが同時に閉塞したそれとはまったく違ったものであったはずだ*。そしてそのような日本が実現していたのならば、現代日本もまったく違ったものになっていた。南蛮美術はそのもう一つの日本の姿を垣間見せてくれる。
*信長死後、当初宣教師に寛大であった秀吉は徐々にキリスト教徒への迫害を強め、1587年にバテレン追放令、1597年26人の信者の長崎での処刑を行った。秀吉以後徳川時代には1639年鎖国令がだされ、日本での布教は禁止、信徒の改宗が強制された。

イエズス会が日本に辿りつき、彼らの布教が信長の庇護をうけ発展し南蛮美術が作成されたこの短い時間は、日本美術史上おそらく唯一無二であり、その後決して訪れることがなかった特殊な時間であった。

西洋が次に日本の前に現れるのは明治だった。明治日本にとっての西洋は圧倒的武力を背景にした畏怖すべき侵入者であり、明治の西洋画家たちにとっては西洋絵画は、黒船の武力を背景にした学ぶべきものであった。彼らは富国強兵を掲げる若い明治国家の要請を感じつつ「学ぶもの」として、西洋と対峙しなければならなかった。加えてこれらの画家たちは近代絵画について回る問題にも直面しなければならなかった。神や王に捧げられることで自身の位置を定められていた近代以前の絵画と異なり、近代絵画の画家たちは、自身の絵画の価値を自身で証し立て、主張するため、外部にある規範(神)ではなく、自身の内部を覗き込み「この絵には何の意味があるのか」と問わなければならない。

けれど「初期洋風画(南蛮美術の別称)」の作者達には、明治以降の画家が直面したこれらの問題は無縁だった。彼らは画家ではなく、むしろ職人だった。「南蛮」や「紅毛」という語自体が指し示すように、この時代の人々にとって西洋は仰ぎ見る対象ではなく、「海の向こうから来た変わったお客さん」だったはずだ。だから南蛮美術に向かうと、この時代の職人たちの、自身の腕前に裏付けられた陽気さ(「何か変わった奴らが遠くから来て、注文がきたから、こいつらにあわせた物をつくってやろう」とでもいうような)と、海の向こうから訪れた相手へのあくまでも対等な視線が感じられる。そして同時に南蛮美術には、異国から来た船により広がった地平線と、その果てにある異国に対峙した当時の日本人の高揚感が溢れている。この高揚感はすぐ後で秀吉と家康の手によって日本の地からかき消され、明治時代には畏怖に姿を変えて現れるだろう。

以下の南蛮屏風に描かれた人々の顔には、警戒心とともにそのような好奇心がはっきりと描かれている。

世界地図・万国人物図屏風。右側には日本人と並行して多種多様な人種が描かれ、地図上にはたくさんの船がとても楽しそうに浮かんでいて、当時の日本人が世界へ向けた、高揚した視線が感じられる。

四都図・世界図屏風。想像上のリスボン・セビリア・ローマ・イスタンブールを並べ、その上に当時の人々の姿(想像図)を描いた、この極めて特異な絵からは、この時代の日本人の想像力がしっかりと世界に向けて開かれていたことがはっきりとわかる。

泰西王侯騎馬図屏風。実際に前にたつと、この屏風は、とても、とても、大きい。信長公記の解説で岩沢愿彦は「信長時代の文化は、雄大な規模をもち、豪壮・絢爛たる様式を備えていた。」と書いているが、この屏風はその文化の最たるものだろう。ここでの人物の顔の描かれ方やその構図は他の時代の日本美術とは、はっきりと違う。橋本治は「カッコいい」絵と呼んでいるのだが、私もこの表現に同意するとともに、信長が生きていたら、ここに自身を並んで描かせたのではないか、と思ってしまう。

繰り返しになるが、近代が日本に訪れる前、「帝国の王」となることを目指した男の庇護をうけ、南蛮美術が花開いたこの時間は日本美術と西洋とのかかわりにおいて唯一無二の時間だった。

そして私は、そのような時間につくられた作品群がこのように陽気で、自信に満ち、豪勢で、開放的なものであったことを、とてもうれしく思った。
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上を書くに当たって、若桑みどり 「クワトロ・ラガッツィ」、堀田善衛「次代と人間」、ルイス・フロイス「フロイス日本史」、奥野高広・岩沢彦校注「信長公記」を参考にしました。