爆弾は政府市庁舎の脇に停められていたフォルクスワーゲン・クラフターの中で爆発した。爆発により付近一帯はガラスの破片と瓦礫で満たされた。爆発音は7キロ離れた場所からも聴こえた。爆発とともに発生したかにより政府市庁舎の反対側にあった石油・エネルギー省も延焼した。
同日17時過ぎ、警官を偽装した男がウトヤ島に上陸し、労働党青年部(AUF)が催した政治集会に参加していた若者達に、オスロでの爆発事件をうけて見回りに来たといい、若者たちを自分の周りに集合させた。
若者達を集めた後、男は銃を向け発砲を開始した。男は逃げ惑う若者達に向けて銃を乱射し69人を殺害した。517人の生存者のうち、66人は負傷を負った。
銃を持った男は、「こちらへおいで。大事なお知らせがある。こちらへおいで。怖がることはないよ」と呼びかけてから、銃を乱射したという。(引用元)
それから彼は人々を追いかけてテントの中に入っていった。彼はテントのなかで撃ち続けた。どこにも隠れるところがなかった。20人か30人くらいが水の中で死んだ。撃たれた人を何人も見た。銃はとても強力だった。大きな水しぶきがたった。水の色は赤くなっていた(引用元)。なお労働党の青年部は反レイシズムを明確に掲げ、メンバーの多くはノルウェーではマイノリティーの人種出身だった(引用元)。
事件による死者は総計で77名。負傷者は100名以上。第二次世界大戦以降ノルウェーで起こった最も悲惨な事件となった。
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他のヨーロッパ諸国と異なり、ノルウェーでは歴史的に極右の活動が盛んだったことはなく、近年においては2001年にネオナチのグループに所属する2人の少年がおこした殺人事件がほぼ唯一のものだった。
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犯人はアンネシュ・ブレイビクという当時32歳のノルウェー人だった。出所: The Gardian
事件直後の7月23日にThe GardianのPeter Beaumontはブレイビクの人物像について以下のように書いている。
- 多文化主義、左翼、イスラム教徒に深い憎悪を抱く極右のキリスト教原理主義者である
- ノルウェーのオスロで育ち、ノルウェーの皇太子と同じ小学校に通っていた
- 自身の10代について振り返って「ノルウェー人と移民との間で人種的な緊張」を感じていたと述べている
- 1994年から2004年まで保守政党の青年支部に所属するメンバーであり、当時の彼を知る者は「(彼は)平穏で静かだった」と述べている
- 彼は後にこの政党について「理想を掲げる立場をとる代わりに「多文化主義」と「ポリティカルコレクトネス」を容認している」、と非難している
- 暴力的なビデオゲームを好み、しばしばミリタリーファッションをしていたことを隣人に目撃されている
- カフカとジョージ・オーウェル(「1984」)を愛読していた
- 自身のブログで「ノルウェーとスウェーデンでは極左のマルクス主義は日々受け入れられているが、愛国主義と文化的保守主義についての確立された真理は極右としてレッテルが貼られている」と述べている
- 事件の5日前にTwitter上でジョン・ステュアート・ミルの「信念をもつ一人は利害関係にしか興味のない1,000人の力に匹敵する」という言葉を引用していた。
The Gardianの11月25日付の記事によると、ブレイビクはウタヤ島で大量殺人を行った後、警察に電話をかけて「オペレーションを終えたので。。。。自首したい。」と自首を申し出て、SWATチームに逮捕された。
2度目の審問のなかで自身が起こした虐殺について「ノルウェーとヨーロッパを救うために必要だった。」、「あの虐殺はヨーロッパのイスラム教徒をパージし、多文化主義を戴く政治家を罰するための文化革命であった」と述べたとされる。
2011年11月29日の朝日新聞の記事によるとブレイビクは犯行時「被害妄想を伴う統合失調症」であり、罪を問える状態にないため今後隔離され精神病院内で治療される見込み。
ノルウェーは死刑を廃止しており、ブレイビクが正気であれば30年の刑期を務めることになるが、上記のように事件当時法的責任能力がなかったと判断され、隔離治療となった場合、今後3年ごとに行われる治療状況のレビューにおいて、担当医が患者の病状が治癒し、社会にとって害がないと判断すればブレイビクは早期に釈放される(ソース)。
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ノルウェーではこの事件をうけて保安上の攻撃に対する脆弱性を強化するための施策の必要性が唱えられており、首相のイェンス・ストルテンベルグはこの件を検討する委員会を設置した。
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これから何回かに分けてこの事件に対するノルウェー首相のスピーチを載せる。最初は事件の2日後7月24日に行われたもの(原文はここにあるので精確に理解したい方はこちらをご参照ください)。このスピーチの段階では事件の全容は未だ把握されていなかった。
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イェンス・ストルテンベルグ ノルウェー首相
皆さん
ウタヤ島とオスロにおいてノルウェーが第二次世界大戦以降最悪の残虐行為に見舞われてからほぼ2日が経ちます。
まるで永遠のような時間です。
ショックと絶望と怒りと嘆きに満ちた時間であり、昼と夜でした。
今日は追悼のための日です。
今日は少し休むことにしましょう。
亡くなった人達を思い出しましょう。
もう我々の側にはいない人たちを追悼しましょう。
92人が亡くなりました。いまだに行方が分からない人もいます。
どの一人の死も悲劇です。すべてが積み重なると国家の悲劇です。
我々はまだこの悲劇の規模を把握できないでいます。
我々のうちの多くは亡くなった人たちを知っています。ただ単に知っているという以上の間柄でした。
私も何人かを知っていました。
モニカはそのなかの一人でした。彼女はウトヤ島で20何年か働いていました。我々の多くにとって彼女こそがウトヤ島でした。
彼女は死んでしまいました。国中から来ていた若者を治療し、保護しているさいに撃たれ殺されました。
彼女の夫のジョン、そして娘のビクトリアとヘレナは今日ドランメン教会にきています。
本当に理不尽なことです。我々がともに悲しんでいるということあなた方にお伝えしたい。
もう一人私が知っていたのはトレ・エイケランドです。
ホルダランド県内の労働党青年部のリーダーであり、最も才能に満ちた若い政治家の一人でした。
彼がEUによる郵便制度に関する指導に対し反対する感動的なスピーチを行い、議論に勝利し、労働党大会において賞賛を浴びたことを覚えています。
彼は今死んでしまいました。永遠に去ってしまいました。受け入れがたいことです。
これはまだ我々が失った中の二名にすぎません。
我々はもっとはるかに多くの人々をウトヤ島と政府官邸で失ったのです。
我々はまもなくその人々の名前と顔を知るでしょう。そして、この蛮行の全容が恐怖とともに明らかになるでしょう。
それは新しい試練となるでしょう。
しかし、我々はこの試練も乗り越えるでしょう。
この悲劇の只中にありながら、私は危機的な時において顔を上げ、上を向き続けた国に住んでいることを誇りに思います。
私はこのような事件のなかにおいてさえ出会うことができた尊厳と思いやりと決意に心を打たれてきました。
我々は小さな国です。しかし誇りを持った国民です。
我々は依然起こったことにショックをうけています。しかし我々は我々の価値を決して放棄しないでしょう。この事件に対する我々の応答は、より一層の民主主義であり、寛容さであり、思いやりなのです。しかしそれは決してナイーブさからくるものではありません。
労働党青年支部の少女はCNNのインタビューに答えるなかで、このことを誰よりも上手く言い表しました。
「一人の男がこれほどの憎しみをうみだせるならば、我々があわさればどれほどの愛をうみだせるか簡単に想像できるでしょう。」
最後に愛する一員を失った国中の家族の方々に対して呼びかけたいと思います。
あなた方が失ったものに対して、私そしてノルウェーという国から衷心より哀悼の意を表します。
それだけではありません。世界中があなた方と悲しみを共にしています。
私はバラク・オバマ、ウラジミール・プーチン、フレデリック・ラインフェルド、アンゲラ・メルケル、デイビット・キャメロン、ドミトリー・メドヴェージェフそしてその他多くの政府首脳に、彼等彼女等の弔慰をあなた方に届けると約束しました。
これらの弔慰であなた方が失ったものを取り戻すことはできません。何物もあなた方の愛するものをよみがえらせることはできません。
けれど、我々はみな、人生が最も暗いときにおいて支えと慰めを必要とするのです。
今があなたがたの人生で最も暗い時でしょう。
我々があなた方の側にいるということを知ってほしい。