2012年1月16日月曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -④

今回は本書の3つ目のテーマである2人の自己(two selves)について扱う。なおカーネマンは本テーマと同趣旨の内容を以下のTEDトークで講演している。本書に沿ってテーマの簡単な紹介をした後、感想を付した。
出所: Daniel Kahneman on TED talk
*****
【2人の自己】
カーネマンによると効用(utility)という言葉の中には2つの違った意味が含まれている。1つは実際に体験される効用(カーネマンはこれを"experienced utility"と呼ぶ)で喜びや痛みなどを指す。もう1つは意思決定を考える際に使われる効用(カーネマンはこれを"decision utility"と呼ぶ)。
d
経済理論はこの2つが一致することを暗黙に仮定するが、両者は必ずしも一致するとは限らない。そしてこの不一致は「幸福」や「厚生」を考えるさいに、重大であり哲学的でもある問題を引き起こす。
d
カーネマンはより具体的に上記を下のように言い直す。時間を通して我々のなかには以下の2人の自己が存在する。
  1. 体験する自己(experiencing self):出来事が時間のなかで生起するさい、 実際に時間の流れに沿ってそれらを体験する自己
  2. 思い出す自己(remembering self):時間がたった後に一連の出来事を振り返って思い返すさいの自己
思い出す自己はシステム2の産物であり、我々が物事や事象を思い出すさいにはこの自己を介するが、この自己が記憶を復元するやり方には特定のメカニズムがある。そしてこのメカニズムにより、体験する自己と思い出す自己の認識が一致しない事態が発生する。

【2人の自己-事例1】
カーネマンは自身がRedelmeierと共同で行った以下の実験を紹介する。

実験:手術AとBをうける患者について、痛みを伴う内視鏡検査が行われている間、1分ごとに患者がその時点で感じた痛みを10段階(0は"痛み無し"、10は"耐え難い苦痛")で記録していく。手術Aをうける患者の検査は平均で8分続き、手術Bをうける患者の検査は平均で24分続く。以下は時間を横軸として手術Aをうけた患者と手術Bをうけた患者が申告した痛みを表すグラフ(の1例)である(下の例ではAの手術は8分、Bの手術は24分で両者とも最終の時点は手術の終わりなので痛み無しで0となる)
出所:上はカーネマンのノーベル賞受賞記念講演のさいのペーパーより引用した
d
この手術の後、それぞれの患者について"手術中の痛みの合計"を10段階評価で評価するよう依頼した。この作業を多数の患者について行った。
d
この結果として統計的に以下の結果が得られた。
  • ピーク・エンド・ルール(Peak-end rule):"痛みの総計"として報告される数字は"手術期間の最悪の苦痛"と"手術期間の最後の時点での痛み"の平均として予測できる
  • 持続期間の無視(Duration neglect): 手術の持続期間は患者が申告する苦痛の総計に影響を及ぼさない
上の図から見れば"痛みの総計(=灰色の部分の痛みの総面積)"は明らかにBのほうが大きいのにもかかわらず、ピーク・エンド・ルールによるとAが痛みの総計として申告する数字7.5(最悪の苦痛8と最後の時点での痛み7の平均7.5)はBの4.5(Average(8,1)=4.5)よりも大きく、Aのほうが"痛みの総計"を大きく申告する。

上のルールは対象が"痛み"という事象のみにあてはまるものではなく、"幸福"というような他の事象にもあてはまる(幸福については下を参照)。

ここでは体験する自己と思い出す自己との間に乖離が発生している。これは様々な問いを提起する。例えばこの実験の結果を知った医者は以下のうちどちらを選択すべきだろうか?
  • 患者の「苦痛に関する記憶」を減らすことを目的とすれば、手術時間を短縮するのではなく、最悪の苦痛を減らしたうえで、手術時間を延ばして徐々に痛みを減らしていくことのほうがプライオリティが高くなる
  • 患者が「実際に経験する痛みの総量」を減らすことが目的ならば例え苦痛の激しさが増すとしても手術時間を短縮したほうがよい
カーネマンによるとマジョリティは下の選択肢を選ぶ、つまり体験する自己の提起する問題(「いま痛い?」)と思い出す自己の提起する問題(「全体としてどうだった?」)が衝突した場合、思い出す自己のほうが重視される傾向が強い。

【2人の自己-事例2】
思い出す自己が重視される例として、カーネマンは以下を挙げている。

思考1:あなたは今からとてつもない痛みを伴う手術を体験する。あなたは泣き叫び術者に中止を願う。しかし術後あなたは体験したすべての痛みを完全に消去する薬を投与され、苦痛の痕跡は完全に除去される。

思考2:あなたは今から素晴らしいバカンスを体験する。ただし、バカンの後あなたがバカンスに行ったことを示す証拠(写真やビデオ)はすべて消去されたうえ、投薬によりあなたのバカンスの記憶は完全に消去される

上記2つの思考いずれでも体験する自己と思い出す自己が対立する。これらに関してもカーネマンは驚くほど多くの人間が思い出す自己を重視する、と述べている(つまり思考1ではそのような手術の痛みをあまり気にかけず、思考2ではそのようなバカンスには価値を認めない)。
d
思考3:あなたはコンサートに行った。あなたは素晴らしい演奏を体験していた。ところが演奏の最後の最後で不快な音が発生した。

多くの人がこのコンサートを思い出すさいには、途中まで素晴らしい演奏を聴いていたにもかかわらず、最後の不快な音とともに「不快なコンサート」として思い出す。

【「幸福」?】
「ピーク・エンド・ルール」と「持続期間の無視」は痛みだけではなく、我々の「幸福」の評価にも影響を及ぼす。以下はカーネマンが紹介する実験より。

実験概要: 実験の参加者はジェンという架空のキャラクターについての描写を読む。彼女は未婚であり、子供はなく、交通事故により即座に苦痛なく死んだ。彼女の人生について参加者に以下のストーリーが提供された。
  1. 彼女は仕事や休暇を楽しみ、余暇を友達や趣味とともに過ごし、とても幸福な人生を送った。*彼女の人生の長さについては30年のケースと60年のケースがあり、それぞれの参加者に対して2つのうちのどちらかを渡した。
  2. 上記のストーリーに5年の追加の人生を付け加えたストーリー(つまり彼女の人生は35歳か65歳)。ただし付け加わった5年の期間において「彼女は引き続き幸福であったが前ほど幸福ではなかった」("pleasant but less so than before")。
上記を読んだ後、参加者は彼女の人生を評価するように依頼された。
質問1「彼女の人生を総体として考えた場合、ジェンの人生はどれくらい望ましいものだったと思う?」
質問2「ジェンは彼女の人生でどれだけの量の幸福または不幸を経験したと思う?」

実験結果として
1においてジェンの人生の長さ(30年or60年)はジェンの人生に対する参加者の評価に影響を与えない(持続期間への無視)。
2において"ほんの少し劣る5年間"を付け加えた場合には参加者の評価は著しく下がる(ピーク・エンド・ルール)。

我々が人生を評価するさいには、人生を瞬間が堆積した時間における幸福の総量として評価するのではなく、人生の特定の時間における幸福さ(というナラティブ)によって評価しているようだ。
⇒カーネマンは結論部分でこの考えを突き詰めていくと「長期間の平穏さよりも短期間の喜びを重視する」という考えに至り「今それをすると後悔する」といった類のアドバイスの効力が薄れるような事態にもなり得ると言っている。

【フォーカシング・イリュージョン】
「人生がどれだけ幸福か?」というような大きな問題を評価する場合、我々の頭脳はそれを「より答えがでやすい簡単な問題」に置き換える傾向がある(システム1の働き)。例えば本書には次の事例がでてくる。

・最近どれくらい幸せですか?
・先月何回デートをしましたか?

この質問をこの順番で問われた学生の答えを統計的に見ると2つの質問の相関はゼロだった(つまり「人生の幸福度」と「先月のデートの回数」には関係がない)。しかし質問の順番を変えて、

・先月何回デートをしましたか?
・最近どれだけ幸せですか?

という順番で質問をした場合、「先月のデートの数」と「幸せの評価」は強い相関を示す(デートの数が多い人ほど幸せ)。

2番目の質問では我々の頭脳は「幸せ」という問題を「先月のデートの数」という簡単にわかる数字に置き換える。

また人生の問題のような大きな問題を考える場合、我々の答えは質問に答える時点での「天候」や「ムード」にも大きく支配されることが知られている。

このような人間の頭脳の働きはシステム1によって駆動されており、我々が大きな考えづらい、簡単に答えが見つからない問題(「人生の幸福」「結婚の幸福」等)を考えるさいには、それを簡単な形(「デートの数」「今日の天候」「今日の気分」)に置き換える。このように大きな問題を考える際、答えがその時点で注意を引き付けるものに大きく依存することを「フォーカシング・イリュージョン」と言う。カーネマンは言う。
Nothing in life is as important as you think it is when you are thinking about it.
人生において、あなたがそれを考えているときに重要だと考えること以上に重要なものはない。  
*****
【雑感】
本テーマは本書のなかで第5部のわずか40ページ足らずの分量を占めるだけだが、記憶、幸福、評価といった問題を考える際のいくつかのシンプルな枠組みを提示している。それらが提起する問題は深く、哲学的な内容であり、読者に様々な思考をおこなわせる内容になっている。なお筆者は本部分を読んで真っ先にヨーゼフ・ロートの「聖なる酔っぱらいの伝説」が頭に浮かんだ。主人公はパリの橋の下で貧乏暮らしを送っていたのだが、ある日の奇妙な出来事から彼の身の回りに不思議な出来事が起こり始め、最後にとても幸せな死を迎える。ピーク・エンド・ルールに重ねて、主人公の人生は幸せだった。

現代マクロ経済学の主要モデルの一つであるRamseyモデルでは「期間における集計化された家計の消費量を最大化する」、という形で目的関数が定義されることが多い。そこでは消費の総量が幸福の総量の近似値として使用されているように思えるが、これは体験する自己の立場にたつ形で「幸福=幸福の総量(総面積)」を上げることを目的としている、とみなせる。

しかし上にあげた幸福の評価に関する実験結果は「そもそも"幸福の総量"よりも、"期間における最大の幸福値"や"期間の終わりの時点の幸福"のほうが人々の幸福に関する評価に大きな意味を持つ」可能性を示している(思い出す自己>体験する自己)。

それでは経済政策も思い出す自己の立場にたつ形での「幸福」を最大化することを前提とするべきか?その場合、ピーク・エンド・ルールを突き詰めて考えると、元気な人にリソースを割くよりも死期の近い人々に最大の満足を与えるようリソースを割くべき、となるのではないか?等という疑問がでてくる。

またそもそも持続期間の無視とピーク・エンド・ルールを適用すると「ある人の人生の評価において人生の長さ事態には意味がない」という結論(思い出す自己の立場)が導けそうだが、それに対して「思い出す自己の評価からは無視される人生の瞬間瞬間の時間の堆積は大切であり、長い寿命は良いことだ」(体験する自己の立場)という反論は意味を持つのだろうか(記憶から消えてしまう時間の価値をどのように位置づけるのだろうか)?

加えてそもそも簡単な答えのない大きな問題(「私はどれだけ幸福か?」等)を扱う場合、人の評価自体が相当いい加減になる(フォーカシング・イリュージョン)ようだが、そのような自己の評価にどれだけ重みをおくべきだろうか?

思い出す自己と体験する自己の不一致について、もう一つだけトピックを挙げると、現在世界で「記憶を部分的に消去する薬」の開発が進められており、近いうちに実用化される可能性があるが、これにより意図的に体験する自己の体験を消去することは許されるのだろうか?

カーネマン自身は「両方の自己について考えるべき」、として一方を完全に無視するのは誤りであるとしているが、あまり突っ込んだ話はしていない(突っ込むとボリュームのある内容だからだろうが)。

いずれにせよ本パートは従来経済学で使われてきた「幸福」「記憶」「時間」「自己」といった概念に新たな複雑性を加える内容を含んでおり、伝統的な経済学が扱ってきた領域を踏み越えて哲学や認知科学その他の隣接分野に越境しているように思われる。カーネマン自身が心理学の出身であることを考えると、「経済学からほかの分野への越境」という言い方よりも「ほかの分野(心理学)の知見を経済学に接続した」という言い方のほうが正しいのかもしれない。