2012年1月12日木曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -③

引き続き本書の中心テーマを1つずつ紹介していくが、今回は「2種類の人間」について触れる。概要の紹介と雑感を付けた。
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【2種類の人間】
カーネマンは経済学が仮定する経済人は人間の現実をとらえていないという(なおカーネマンは経済学を規範的な理論ではなく現実をあらわす理論としてとらえている)。
  • 経済人(ECONS):経済学で想定される選択の一貫性を有する合理的な意思決定者
  • 人間(HUMANS):必ずしも合理的な経済学のモデルではとらえられない現実の意思決定者
カーネマンによると、人間は非合理的ではないが、経済学で想定されるエージェント(ECONS)のようには合理的ではない。実験で得られた知見から人間(HUMANS)の意思決定の実相をよりよく反映するための理論としてカーネマンはプロスペクト理論を紹介する。
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【プロスペクト理論-事例】
カーネマンとトベルスキーは一連の実験から選択の一貫性という経済人が依拠する仮定が現実世界では成り立ち難いことを示し、プロスペクト理論を提唱した。プロスペクト理論は経済学の専門誌Econometricaに発表され現在に至るまで引用され続けている(カーネマンのノーベル経済学賞受賞理由でもある)。以下本書に沿った簡単な説明。なお以下の例は本書からとったが単位だけ変えた(ドル⇒円)。
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A, Bそれぞれが以下の2つの選択肢から1つを選択しなければならない。それぞれどちらを選択するだろうか?
1:手持ちの資産が50%の確率で1億円に、50%の確率で4億円になる。
2:手持ちの資産が100%の確率で2億円になる
この選択に臨むA,Bの2人はそれぞれ1億円と4億円の資産をもっている。
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⇒Aは1を選択すると、手持ちの資産(1億円)が「そのまま」か「4億円」になる。2を選択すると、資産が確実に「2億円」になる。
⇒Bは1を選択すると、手持ちの資産(4億円)が「1億円」になるか、「4億円」のままである。2の場合は確実に「2億円」になる。
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カーネマンによると、このような選択に直面した場合、多くの人がAの立場であれば2を、Bの立場では1を選び、同じ人でもAの立場とBの立場で選択が別れることが多い。何故だろうか?カーネマンによると多くの人は以下のように考える。
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A:「2を選ぶと確実に資産が2倍になる(ゲインが1億)。これはよい。1を選ぶと5分5分で資産が4倍になる(ゲインが3億)か、何も得ない(ゲインが0)かだ。」
B:「2を選ぶと確実に資産が半分になる(ロスが2億)。これはよくない。1を選ぶと5分5分で資産が1/4になるか(ロスが3億)、何もなくさない(ロスが0)かの選択になる。」
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結果多くの人はAの立場ではリスク回避的な選択をし、Bの立場ではリスク愛好的な選択をする。実はこれは合理的な意思決定者の視点から考えるとおかしい。
⇒現在の手持ち資産と選択肢の結果の間にはなんの関係もないのだから、現在の資産が選択に影響を与えることはないはずである。
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【プロスペクト理論-原理】
プロスペクト理論では選択を行う際人間は以下の3点を考慮する。
1. <レファレンス・ポイント>自分がいた/いる地点(レファレンス・ポイント)との比較(ゲインかロスか)で選択肢を評価する
⇒上でAは選択肢を自身のレファレンス・ポイント(1億円)と比較し、0、1、3億のいずれかのゲインという視点で、Bの場合はレファレン・スポイント(4億円)から0, -2, -3億のいずれかのロスという視点で評価する。
2.<効用(不幸用)の逓減>レファレンス・ポイントからの乖離が大きくなると我々は同程度の変化に対して等分の効用(不幸用)を得なくなる(たとえば我々は1億から2億の変化(+,-いずれも)に対して、10億から11億の変化よりも大きく反応する)。
3.<ロス回避>同程度のロスをゲインよりも大きく評価する。例えば多くの人は50%の確率で1万円を得、50%の確率で1万円を失うギャンブルを行わない(進化の過程で身につけたリスクを避ける習性)。
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上記を勘案したプロスペクト理論の効用関数は下の図のようになるが、下ではA,Bが直面する選択肢の説明を加えてみた。


出所: Wikipedia Prospect Theoryのグラフに筆者が追記
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【プロスペクト理論-レア・イベント】
実は、ゲインやロスに対してリスク回避的になるかリスク愛好的になるかは、選択者が直面する確率で変わってくる。最後にもう1つだけカーネマンの本から例を挙げる。
1. 95%の確率で100万円を得る(=5%は何も得ない)か、100%の確率で95万円を得る
2. 95%の確率で100万円を失う(=5%は何も失わない)か、95万円を確実に失う
3. 5%の確率で100万円を得るくじを買うか、何もしない
4. 5%の確率で100万円を失うか、保険にお金を払って100%何も失わないようにする。
⇒多くの人は、1では後者(リスク回避)、2では前者(リスク愛好)、3では前者(リスク愛好的)、4では後者(リスク回避的)になる。上をまとめると以下のようになる。
 例えばそれなりに高確率の事象のゲインに直面すると、人はそのゲインを確定させたくなる(左上:前のAの場合)。ロスの場合はむしろリスク愛好的になる(右上:前のBの場合)。これに対して低確率(レア・イベント=まれにしかおこらない)な事象においては人の選択は異なってくる。人はこのような事象が起こる確率を実際よりも過大評価する。従って低確率のゲインに直面すると人はゲインがでる確率を過大評価しリスク愛好的になる(左下:例 くじ引き)、ロスの場合も低確率の事象の確率を過大評価してリスク回避的になる(右下:保険)。
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同じ人が確率の高/低によってゲインやロスを伴う事態に直面し違う態度をとる。
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【雑感】
カーネマンは効用理論を批判しているが、それを完全に棄て去ったわけではなく、プロスペクト理論に関しては効用理論の前提に追加・修正を加えたものとして説明している。このほかレファレンス・ポイントといった概念を用いて経済学でつかわれる無差別曲線上の各点は本当に「無差別」なのか、といった問題提起もしている(ブライアン・カプランマンキューもこの論点を取り上げていた)。
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プロスペクト理論では我々の判断は、過去の堆積の上にある現在地点(レファレンス・ポイント)とそこからのゲインとロスを基準になされる、と仮定される。これは多くの交渉の場面で見られる現象である。例えばプロ野球選手の年棒交渉などを見ても、改定前の条件(出発点)と比較して「上がったか、下がったか」という取り上げ方がされるのは、年棒交渉がレファレンス・ポイント(今年の年棒)を基準にした交渉だからなのだろう(なおゲーム理論にも交渉の収束点としての「フォーカル・ポイント」という似たような概念があるがこの2つの概念が対応するのかどうか筆者には分からない)。
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また、レファレンス・ポイントを前提にすると経済学の「サンク・コスト」という概念が、頭では理解されても実際にはなかなか納得されない理由の一部が説明できるような気がする。「いままでにかかった費用はサンク・コストとして、将来の収支のみを考えましょう」といわれても、良かれ悪しかれ我々の意思決定にはそのような考え方とは相いれない側面があるのかもしれない。
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「ロスに直面した場合にリスク愛好的になる」というロジックは個人の選択に限らず、企業や国等にも適用できるようにも思われる。
⇒例:例えば企業の損失隠しの件で、「確実な損失」と「損失をリカバーできる確率のあるギャンブル」があった場合に後者を選択し、より損失をひろげる、という類の事例
⇒例:敗戦の色が濃い戦争をおこなっている国が一か八かを目論んでリスク愛好的な選択(突撃や戦線の拡大?)を行うd
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このようにプロスペクト理論は新しい知見を与えるが、カーネマンは問題点も指摘していて、プロスペクト理論では選択の結果に伴う"失望"や"後悔"といった概念を上手く扱えないとのこと(効用理論でも扱えないが)。ここらへんは理論のフロンティアなのだろう。
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この理論の紹介の後、カーネマンはリスク政策やフレーミングといった項目を扱っている。そのなかでは上記の人間の意思決定を前提にして、合理的な意思決定を助けるための制度についても述べており、(前回も述べたが)プロスペクト理論や行動経済学は政府等の個人の選択への介入を許容する立場・政策と親和性が高いのだろう。