以下はインタビューの3/4。3冊目の本として、アセモグル自身の共著書であるWhy Nations Failをとりあげている。トップ層への富の集中を考える際に前回自身が重要だと指摘した政治のメカニズムについて、この本のフレームワークを使いながら概説している。なお、アセモグルは自身の指摘する3つの不平等のうち、政治権力の不平等な分布が社会にとって一番害が大きい、と考えているようだ。その次が機会の不平等で、経済的な不平等自体は、それがもたらす政治的な不平等の危険を除くと他の2つほどは重視していない(ここらへんは主流派の経済学者らしい?)。
Why Nations Fail by Daron Acemoglu, James Robinson
なお私はこの本は未読だが、Amazonの推薦人がすごい面子になっていて、Steven Levitt(「ヤバい経済学」著者)、Jared Diamond(「銃、病原菌、鉄」著者)、George Akerlof(ノーベル経済学賞受賞)、Robert Solow(ノーベル経済学賞受賞)、Peter Diamond(ノーベル経済学賞受賞)、Gary Becker(ノーベル経済学賞受賞)、Kenneth Arrow(ノーベル経済学賞受賞)、Francis Fukuyama(「歴史の終わり」著者)、Niall Ferguson、Dani Rodrik等々、アカデミズムのスーパースターが目白押しという感じで、壮観である。
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彼らが指摘することの一つとして、アメリカとイギリスにおいてのトップ層の所得シェアがレーガン及びサッチャー政権のもとで上昇し初めていることがあります。上昇する不平等は単にレーガンとサッチャーが富裕層への税金を減らした結果ではありませんか?d
個人的にそれは、一定の役割をはたしているにせよ、主要な事柄ではないと思います。キャピタルインカムにおいて、それはたしかに役割を果たしました。トップ0.1%層を見ると、彼らの多くはキャピタルゲインによって所得を得ています。したがって資本取引を厳しく課税すると、富裕層の手元に残る資本は今のようには多額のものではなくなり、資本取引による収益は今のように(階級別にみて)不均一にはならなくなるでしょう。そこに対する課税には機械的な効果(mechanical effect)があるでしょう。しかし、より(影響の)微妙な2種類の効果が課税によって発生します。1つ目はより累進的な税率(富裕層がより大く支払う)は人々の一生懸命働こうというインセンティブとそのための努力を阻害する可能性があることです。これにより、彼ら(富裕層)の所得は減り、したがって不平等も減るでしょう。それは非効率かもしれませんが、高い税金を賦課するさいにおこることの1つです。2つ目として、そのような課税は人々が自身の給料を上げるために会社と交渉をしたり、"レント・シーキング(訳注:必ずしも会社の利益に一致しない個人の利益追求活動)"をしたりするさいのやり方を変える可能性があります。私はこれが大きな要因になるとは思いませんが、一例として極端な例を挙げると、もしトップ層の所得に99%の税率が課せられると、CEO達が自身の給与を上げるため法律的にグレーな活動をしようとはしなくなるでしょう。そのような活動をしても彼らが得られるものは何もないのですから。反対にもしトップ層の税率が30%で、CEOが(ストック)オプションから所得を得られるならば、彼らはエンロンのCEOのKenneth Rayがしたような振る舞いをしたくなるかもしれません。彼らはそのような活動の見返りに、より多額のお金を得られますから。したがってトップ層への高い課税は、彼らの労働供給を非効率に減少させるかもしれませんが、また同時に彼らのレント・シーキング活動も減少させるかもしれません。
それでは、あなた自身の考え方をより詳しく知るために次のWhy Nation Fail: The Origin of Power, Prosperity and Povertyについて話しましょう。d
このトップ層の不平等について理解するに当たり、私はこれは政治の問題ではないかと申し上げました。我々は政治についてどう考えるべきでしょうか?政治の役割とは何なのでしょうか?それについて考えるために、我々には概念的なフレームワークが必要ですが、この本はそれを与えようと試みています。この本は私の長年の共著者であり友人でもあるJim Robinsonとの共著です。この本はアメリカ、イギリス、カナダなどの不平等について論じた本ではありません。この本は何千年もの歴史を要約し、ソサエティー(societies)がどのようにして機能し、なぜそれがしばしば構成員である市民に繁栄をもたらすのに失敗するのかの説明を試みています。それはとても政治的なストーリーです。我々のフレームワークの核心は政治的権力を持つ人々と彼らがどのようにしてその権力を自己の利益に資し社会のその他のメンバーの利益に反する形で使うことができるかの間にある緊張関係です。我々はゼロ-サム関係にある社会に生きているわけではありませんし、多くの社会が活用してきた(皆に)繁栄をもたらす能力が存在します。しかしまた、(社会に)ゼロ-サム的な側面があることは確かなのです。しばしば誰が最も大きな分け前を得るのかについて社会の内部に緊張関係があり、人々は自分達がその分け前を得るため、我々の社会の基礎構造をコントロールしようとします。そしてそれが社会がどのようにして社会制度を発達させてきたかについて理解するため、我々(著者達)がつくりあげたナラティブなのです。絶対主義のもとでの社会制度は社会のなかで政治的な権力と経済的な利益(economic outcome)のとても不平等な分布をつくりだしました。この2つの不平等は互いにシナジーをもって働きました。とても不平等な政治権力がとても不平等な経済的利益を固定化したのです。これは負の連鎖を引き起こしましたが、この連鎖がもたらしたコンフリクトはしばしば、この不平等な分布が依拠する制度そのものの崩壊に行きつき、より広かれた社会制度への道を開き、そのような広かれた社会制度が繁栄のためのエンジンの一つとなってきました。
本の最後のパートは逆向きのストーリーです。つまり政治的権力の平等な分布と、よりフェアーな機会をつくりだしてきたこのような包括的な諸制度(inclusive institutions)に対し、どのようにして絶え間のない変更が加えられていくかというストーリーです。このような包括的な諸制度はすべてが公平に分布されるのを保証するものではないのですが、少なくともリソースのもっとも悲惨でアンフェアーな分布を防ぎます。そのような制度はまた、社会のなかで政治権力がより均等に分布することを保証します。しかしながら、このような制度が永続する保証はありません。もしほんの少しのサポートと政治的な権力が得られるならば、人々がこれらの制度を自己の利益になるよう改変し始めることができるという危険は常に存在するのです。政治制度の包括性(の存続)に対しては常に危険が伴います。したがってこのフレームワークにおいては、アメリカにおける不平等の増大がもたらす危険な徴候を、過去200年間にわたりアメリカが維持してきた相当程度に包括的な諸制度に対するチャレンジとなるような徴候と見なすことができるのです。
一言でいうと、今まで上手く機能してたからといって、自分達の政治制度について自己満足におちいることはできない、ということですね。
そうです。我々は他の社会においてどのようにしてそれらの社会の諸制度が180度の転換を経たかの例を本に挙げています。例えば、ベネチアを例にとってみましょう。ベネチアは当時他に類をみないような包括的な諸制度を有していましたが、それらの諸制度は小集団によって徐々にコントロールされていき、最後にはベネチアが成し遂げた進歩は無に帰しました。
つまりあなたは、他と比較した場合のある国の繁栄はその国の地理、気候、文化ではなく、その国が有する政治システムと関係があると考えているのですね?
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ええ、その通りです。私はこれが議論を呼ぶような見方だとは考えたこともありませんでしたが、事実は確かに議論を呼ぶ見方でした。我々は文化や地理などといった要素が、決定的な役割を果たすと考えるよう条件づけられています。なぜならば我々はそれらを常に在るものとみなしますから。それらの要素は存在し、したがってそれらは重要に違いないというわけです。メキシコ・シティがニューヨークよりもこんなに暖かいことが重要でないなどということがありえるでしょうか?ある人々がイスラム教徒であり、ある人々がキリスト教徒であることが重要でない、などということがありえるでしょうか?しかしながら、実際はこれらの要素のどれも、見た目ほどに(重要であることが)明白ではないのです。我々は(本の)前の方の章で、今日世界で繁栄している地域のうちどれほど多くの部分が、ヨーロッパ人がそれらの地域を植民地化するために到着したときには比較的後進的な地域であったかを実証しています。しかしながらメキシコやペルーといった地域はその当時は最も文明が発達し、発展していた国でした。これらの国々にそれぞれ異なった形で課され、その後の後退と分岐につながったのは一連の政治的および経済的な諸制度だったのです。文化及び宗教的価値についても同様のことがいえます。これらの要素と経済的繁栄の結果との間の関連は一定のものではありませんでした。経済の繁栄の度合いは、往々にしてこれらの地域が経てきた異なる政治的歴史の結果なのです。
それならば、より公平な社会というのは常によりよく、より繁栄する社会なのでしょうか?
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そこには3つの異なった概念があります。1つ目は政治権力の平等さです。2つ目は機会の平等さです。3つ目は経済的果実の平等さです。もしわれわれが経済的果実の平等を課せば、その社会はとても非効率な社会になるでしょう。なぜなら繁栄をつくりだすエンジンは個人が所有権を有することを必要とします。つまり個人が努力をして、一生賢明働き、投資をするというインセンティブを持つことが必要なのです。それは必然的に不平等に結びつきますが、もしその不平等を防止しようとすれば、それは多大な非効率をもたらし、おそらくは成長を阻害するでしょう。
例を挙げましょう。ソフトウェア(をつくりだす)起業家に課税することは、アメリカのテクノロジーにおけるリーダーシップを促進しようとする試みにとって、ベストな方法では決してないでしょう。しかし機会の平等について話す場合は別です。もし(社会に)機会の平等がなければ、それはアンフェアな社会をつくりだすのみならず、そのような社会はリソースを最適な形で配分しないでしょう。ソフトウェアの例に戻りましょう。もしテクノロジーにおけるアメリカの創造力を向上させたいならば、我々がなしとげたいことは、(アメリカの)ベストな頭脳が、実際に彼らの望む職業につくことができるような機会を与えるプラットフォームを用意することでしょう。もしソフトウェアにそのようなプラットフォームがあれば、それはソフトウェア産業により優れたイノベーションをつくりだすでしょう。
更に重要なのは、政治権力の平等です。政治権力がとても不均一に分布していると、必然的に政治権力を持つものがその権力を使い、自身のために機会の不平等をつくりだし始めるでしょう。彼らは他の人々から持ち物を奪い、物資を収用し、社会を害するように政治的権力を使おうとするでしょう。
個人的に私は、個人がなした異なった貢献を正しく反映しているならば、社会における経済的な不平等の上昇は完全に許容できます。それは繁栄に貢献するよう人々に対してインセンティブを与えるため、我々が支払う代価なのです。しかし、これには一つ但し書きがあります。もし、最終的に所得がとても不平等になる場合、それに正当な理由があるとしても、そのような不平等は動的な問題(dynamic problems)をつくりだすかもしれません。なぜなら大きな富を持つようになったものは、今や社会における大半のリソースをコントロールすることになるため、彼らはそのリソースを政治権力の不平等な分配をつくりだすために使い始めるかもしれないからです。