2012年2月29日水曜日

書評 Treasure Islands-タックスヘイブンの闇

最近立て続けにケイマン諸島などのタックスヘイブンを利用した企業詐欺や犯罪がおきている。オリンパスでもケイマンのタックスヘイブンが使われたようだし、AIJでもケイマンが使われたようだ。日本人がケイマン、バミューダと聞くと、なにやらエギゾチックな風情を思い浮かべがちだが、実はこのようなイメージの下でかなり大規模な闇取引が行われているようである。

Treasure Islandsは2011年にイギリスとアメリカで出版され、最近邦訳もでた。本書は第二次世界大戦後のタックスヘイブンの変遷を描き、特に1980年代以降の金融規制緩和以降、タックスヘイブンがどのようにして先進国の金融産業や大企業、世界各国の犯罪組織、発展途上国の指導者層によって租税逃れや資金洗浄の道具として利用されるようになったかを描いている。著者ニコラス・シャクソンはイギリス人ジャーナリスト。本書はジェフリー・サックスやニコラス・スターンなどから賞賛されている。
本書によるとタックスヘイブンは以下のような行為のために利用される。
  1. 多国籍企業の税金逃れ:移転価格税制や税率の低い地域に本社を置くなどして、大企業や金融セクターは税金の支払いを最小化している(マイクロソフト、シスコ、グーグル(ブルームバーグはグーグルが払う税金を疑問視した記事を載せている)、GE、大銀行、投資銀行など)。なおU2のボノ(アフリカへの援助を熱心に提唱)も税率の低いオランダにU2の本拠を移しているらしい。
  2. 海外援助の悪用:援助として先進国から発展途上国に送られたお金が当該国の腐敗した指導者層のポケットに入った後、タックスヘイブンを介して先進国へと還流している。したがって援助は本当に必要とされているところに行き着いていない。先進諸国がつくりだしたタックスヘイブンが発展途上国の民衆を搾取することになっている
  3. マフィア・犯罪組織の資金洗浄:犯罪組織はCity of London、バミューダ、デラウェア、マルタ、パナマ、ルクセンブルグ、ケイマン、香港、シンガポール、マカオなどを使ってマネーロンダリングを行っている。このような資金洗浄は複数のタックスヘイブンを介し行われるため、追跡・捕捉が困難である。
  4. 各国が租税の引き下げ:タックスヘイブンの存在は、金融業界が各国政府に租税の引き下げを迫るためタックスヘイブンは"race to the bottom(最低点への租税引き下げレース)"の口実として利用されている(「もしわが国が税率を下げなければ資金がすべてタックスヘイブンに流出する!」)。
なお、1.の租税引き下げ圧力については高い租税を課す国が悪い、という議論もあるが、著者はそもそも大企業と富裕層はタックスヘイブンを介しほとんど租税を払っていないと言い、これは社会的な不公平だと指摘する。
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タックスヘイブンを利用した犯罪を追跡する上で問題になるのはそもそもタックスヘイブンにある会社の社長以下役員は実際に権限を持たない弁護士や会計士が務めていることがほとんどで、登記簿からでは資金の拠出者(実際に会社をコントロールするもの)の身元がわからない点だ。多くの国では資金拠出者の身元は法律で保護され、それを明らかにしようとすると法律で罰せられる。
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著者によると、このような匿名性は直近の金融危機においても大きな役割を果たした。そもそもサブプライム商品などの複雑な仕組み債を保有していたのはケイマン等に登記されたSPCであることが多く、このような会社は、真の責任者(会社のコントロールをしている主体)が誰であるかわからないし、調べる術がない。したがって破綻などのさい情報が表にでないため、債務整理も困難を極める。

タックスヘイブンは世界に点在するため一国を罰しても資金が他国へ流出するだけである(例:ケイマンからマカオへ)。また金融業界は改革には猛烈に反対している。著者は世界的な、特にこの問題について大きな責任があるOECDによる協調が必要だ、と説いている(著者はタックスヘイブン内部からの改革はタックスヘイブンの上位層によって潰されがちであることを指摘している)。

以下は著者が文中で引くケインズの言葉:
When the capital development of a country becomes a by-product of the activities of a casino, --, the job is likely to be ill-done.
一国の資本形成がカジノ活動の副産物となる場合、それは上手くはなされないだろう。
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エギゾチック?
バミューダ島

2012年2月27日月曜日

ドイツ人の本性・・・

マイケル・ルイスはヨーロッパ各国の金融危機への対応を論じた新著「ブーメラン」でドイツについて扱っている。ルイスはアメリカの鳥類学者アラン・ダンデスがドイツ人の特性としてあげているものをとりあげている。今日はダンデスの(素人)ドイツ文化論の紹介。

ダンデスによればドイツ人は「表向きは汚物に嫌悪を示しつつも根底では執着する」という気質をもっており、ヒトラー(「みずからの排泄物の観察に常人離れした情熱を注いだ」)やモーツァルト(「糞便に思いを馳せるのは、この上ない贅沢だ」という手紙を残した)にも同様の傾向がみられる。そして、この性質は庶民にもおよんでいる。
ダンデスがハンブルクの歓楽街に興味を惹かれたのは、地元の客がここで行われる"泥レス"に熱狂していたからだ。裸の女たちが泥を満たしたリングで戦い、見物客は飛沫をよけるためにプラスチック製のフード、いわば頭用のコンドームを着用する。「こうすることで」と、ダンデスは綴る。「観客はみずからが汚れることなく、泥んこ遊びを楽しめるのだ!」。ドイツ人は糞の近くに寄りたがるが、中には踏み込みたがらない。(159P)
ルイスによると、このような性質はドイツの金融機関の金融危機における振る舞いも説明する。ドイツの金融機関は国内向けの業務ではとても慎み深いのだが、国外向けの業務では「垣根から出て、わざわざ泥にまみれようとした」。
過去10年間でドイツが関与し損ねた金融災害といえば、バーナード・マドフの詐欺事件ぐらいのものだろう(ドイツの金融システムにユダヤ人がいないことが幸いしたおそらく唯一の例)。どう見ても常軌を逸しているこのドイツの銀行家たちが、国内では一転、慎み深くなる。これまた清潔な外面と汚い内面の好例だろう。少し泥にまみれたくなったとき、ドイツの銀行は国の外に出るしかない。(168P)
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ドイツ人の生理的な事象への固執(ダンデスにいわせると「スカトロジー」)を指摘するのはルイスだけではない。

モンタネッリ/ジェルヴァーゾの「ルネサンスの歴史」にはマルティン・ルター(「国語の父」であり「イタリアにおけるダンテ、イギリスにおけるチョーサーの地位を、ルターはドイツで占めているのである。」)についての以下の文章がある。
成功の絶頂にあっても、ルターの生活は相変わらず質祖なものであった。「ルター派」という呼称を嫌って「福音派」と呼ばれるのを好み、全集出版の話が出た時は、そんなものは聖書理解の妨げになる、読むに値する書物は聖書だけだと言って、すぐに退けてしまった。使途や聖者や教祖などという気取りは全然なく、かれを崇め奉ろうという人には、「神様は私に、ちゃんとうんこを出すだけの力も与えた給わなかったんですよ」と、ぶっきらぼうに答えるのが常だった。かれのユーモアには田臭があり、この種の生理的モチーフに固執した(引用者強調)。「私の敵たちは飽きることなく私をスパイしている」とかれは言った。「私がウィッテンベルグで屁をひると、奴らはローマでその臭いをかぎつけるのさ」。
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マルティン・ルター(1483-1546)
「わたしは熟した糞であり、世界は巨大な肛門である。」(ルイス ブーメラン,158P)

2012年2月22日水曜日

おとなのけんか

おとなのけんかを見てきた。人の善意とおとなの不毛さを嗤いあう、すばらしい映画でした。人生に出口はないので、せめてお互いに嗤いあいましょう、的なのりでこういうのを「大人の映画」っていうのだろうか?映画館の中は上映中笑い声が絶えませんでした。

あらすじは双方の子供が起こした喧嘩の始末について話し合うため、2組の夫婦が部屋に集まるところから始まる。最初はお互い誠意を見せて歩み寄ろうとしていたが、徐々にお互いの本音をぶつけるようになり、やがて子供のこととは関係のない、夫婦関係や価値観についても罵り合うようになっていく。。。という筋で、ほぼ密室のなかで80分が過ぎる。

セットの変更などがほとんどない仕掛けであり、必然的に俳優の力量が前面にでてしまう構成だが、出演者は芸達者な4人(ジョディ・フォスター、クリストフ・ヴォルツ、ケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリー)。












もっともストレートに嫌なやつ(常に携帯を手放さない製薬会社担当のやり手弁護士)の役をあてがわれ、やりたい放題やれるクリストフ・ヴァルツの演技は当然上手いが、「スーダンでの虐殺に涙を流し、芸術の価値を信じている」という見かけ上では一番の常識人を演じたジョディ・フォスターも大いに賞賛されるべきだろう(「ここはニューヨークよ!」には笑った)。ジョン・C・ライリーは「気立てのよい亭主」から「本音丸出しの下衆夫」への転換を見事にこなす。ケイト・ウィンスレットは見事な嘔吐と酩酊で場面を転換させつつ(「フジタの画集の上に嘔吐」の場面では場内大笑い)、床に散らばった化粧品を泣きながら拾い集める。

誠意と寛容が敵意と八つ当たりと徹頭徹尾自己本位な嘆きと居直りへと展開する脚本はただただお見事。

ポランスキーの戦場のピアニストには人間のどうしようもない性(大きな悲劇から逃げ回りながらも、夜中に部屋に入り込んでピアノをひかずにはいられない)が描かれていたが、この映画では人間のどうしようもなさを前提に、そのなかでこりなく、あくどく、ある時は図々しく、またある時は女々しく生きる大人達の不毛さがある種の清清しさをうみだしている。最後は女同士でお互いの人生を嘆きあう場面もあるのだが、哀愁や共感や救いなどはまったくうまれない。自己本位な大人同士が手前勝手な理屈を述べ立てつつ、お互いにののしりあい、不機嫌に時を過ごす空間を80分見ることができるという、ある意味で大変贅沢な映画。こういう映画がつくられることは「文化」の豊かさのあらわれなのかもしれない(適当に書いているが)。

ストーリーの大きな転換が生理現象(嘔吐と酩酊)によって起こるのも、ある種の諦観ともとれる(おとななんてどんなに上辺をとりつくろおうが気分次第、というような)

村上春樹風にいうと「いい人が一人もでてこない、いい映画」でした。

2012年2月20日月曜日

安土城之図

今回は「安土城之図」について少し。これは戦国時代に特異な個性を発揮した織田信長が、その人生の絶頂期に自身で指揮をとり全権を振るってつくりあげた安土城*の全貌を当時の天才絵師・狩野永徳が描いたといわれる屏風図である。信長は製作途中の永徳に対して細かい指示を再三繰り返し、完成後ほとんど人に見せず、当時の天皇が欲しいといってきても渡さなかったということで屏風のスケッチすら残っていない。美術愛好者の間では是非見たいという声が絶えない品物である。
*安土城は焼けてしまったので天守を含む安土城の全貌がどういうものだったのかよく分かっていない

織田信長はこの屏風図を、ローマ教皇への土産として天正遣欧使節に持たせた。その後ローマ教皇庁に渡ったこの絵はバチカンの宝物庫でなくなったらしく、今に至るまで見つかっていない。

この記事によると最近でも調査団が組織されてバチカンのローマ法王庁を探索したが結局みつからなかったらしい(なお記事にでてくる若桑氏クワトロ・ラガッツィの著者)。

ドストエフスキーのカラマーゾフの続編はもう永久に読めないが、この屏風はまだなくなったと決まったわけではないので、いつかは見てみたい。


↑「安土城之図」レプリカ(想像図)

2012年2月18日土曜日

日本におけるCIAの協力者

出版は少し前だがアメリカで大変評判になったCIA秘録という本の中に、CIAの日本への工作作戦を扱った章がある(第12章)。

以下はこの章でCIAからの資金援助等を受け取りCIAのために働いたとして名前が挙がっている日本人:
  • 有末清三(陸軍中将)
  • 河辺虎四郎(参謀次長)
  • 渡辺渡(少将):この3名はCIAの対共産主義工作のために働いた
  • 児玉誉士夫(政治フィクサー):CIAから資金を受け取り、朝鮮戦争用にタングステンという金属を必要としていた米軍のため、日本軍の貯蔵庫から軍事物資を盗み出しアメリカに密輸出。それによって得た莫大な資産の一部を保守政党(自民党)の政治家に流したとされる。なおCIAの支局報告は児玉について「彼は職業的なうそつきで暴力団、ペテン師で根っからのどろぼう」としている。(P217)
  • 岸信介(総理大臣)及び自民党の政治家達:巣鴨拘置所から釈放後岸はCIAの資金/情報援助などを受けながら総理大臣にのぼりつめる。「アイゼンハワー自身も、日本が安保条約を政治的に支持することと、アメリカが岸を財政的に支援することは同じことだと判断していた。大統領はCIAが自民党の主要議員に引き続き一連の金銭を提供することを承認した。~この資金は少なくとも十五年間にわたり、四人の大統領の下で日本に流れ、その後の冷戦期間中に日本で自民党の一党支配を強化するのに役立った。(P223)」
  • 賀屋興宣(戦時内閣の大蔵大臣、戦後の自民党の政治家):岸信介、佐藤栄作の最も近い助言者の役割を果たした賀屋もCIAの協力者だった。「ダレスは賀屋を自分の工作員だとみなしていた。(P226)」。なお賀屋は石原慎太郎の小説「公人」の主人公のモデルとされる人物でもある。
以下CIAの東京支局長を務めたホーレスフェルドマンの述懐
我々は占領中の日本を動かした。そして占領後も長く別のやり方で動かしてきた。(P227)
なお、CIAが日本を含む各国で秘密工作を行ったことは確かだがCIAの作戦がどこまで成功したかについてはかなり議論がある。CIA秘録のティム ワイリーはCIAの活動による成果については懐疑的である。

2012年2月16日木曜日

ソウイウニホンニ

堀田善衛「広場の孤独」にでてくる詩:
雨二モ負ケテ 風ニモ負ケテ アチラニ気兼ネシ コチラニ気兼ネシ ペロペロベンガコウ云エバハイト云イ ベロベロベンガアア云エバハイト云イ アッチへウロウロ コッチヘウロウロ ソノウチ進退谷(キワ)マッテ 窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ ソウイウモノニワタシハナリソウダ ソウイウモノニニホンハナリソウダ

2012年2月10日金曜日

アセモグル:アメリカの不平等についての5冊④

今日がアセモグルのインタビューの最終回であり、この回はアメリカの富裕層が政治に与える問題からOccupy Wall Streetまでを扱っている。アセモグルは諸手を挙げて賛成しているわけではないもののOccupy Wall Streetに対して決して否定的ではない。その運動の背景となっているアメリカの政治システムが抱える問題への懸念は主流派の経済学者にも共有されている、というところだろう。

アメリカは各地域が1国に匹敵するほど大きい(下参照:GDPで考えるとカリフォルニアはイタリアに匹敵し、テキサスはロシアに匹敵する!)ため、どうしても中央政府にすべての階層の意見を反映させるのが難しくなってしまう。
Source: The Economist
このような国ではどのような民主主義が機能するかについては、今後一層探求が求められるのだろう。
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そしてあなたはアメリカがそのような地点にいると考えるのですね?
そうです。本当に憂慮すべきは、アメリカにおいて不平等が上昇しているのと同時に、おそらく我々の政治システムが他の理由で変質したことにより、政治においてマネーがより一層重要なものになりつつあることです。政治家達は超富裕層の願望や意見や声により一層影響されやすくなっています。これがLarry Bartelの本Unequal Democracyが述べていることです。この本には人が同意する部分と同意しない部分があるでしょうが、私はこの本は我々の民主主義がどのようにしてより一層不平等になったかについての警鐘を鳴らすべき構図を描いていると思います。
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つまり、選挙で選ばれた政権担当者が富裕層の意見ほどには、普通のアメリカ人の意見を聞いていないということですか?
そのとおりです。それは確かなことでしょうか。それは分かりません。しかし、Larry Bartelsはそのことを示唆するのに充分な証拠を提出しており、それが確かであるということを示唆する多くのケーススタディや事例となる証拠が存在します。何がその原因でしょうか?我々はそれについてはよりわずかしか分かりません。原因の幾分かはロビーイングと政治献金によるものに違いありませんが、それが原因のすべてかどうかは私には分かりません。原因の幾分かは我々が能力主義的であるというイメージとアメリカの社会が大きく成功した者の意見を尊重するということからきています。政治家は成功者と付き合うことを好みます。したがって政治家は成功者からアドバイスをうけることになります。
ジェフ・サックスはマンハッタンで昨日の夜、彼のThe Price of Civilizationという本についてのトークをおこないました。彼はオバマが、建設的な理由ではなく、イーストエンドの上流地域での政治資金集めのための追加パーティーに参加するために街に来たことについて激怒していました。これは避けられないことですが、大統領から下位のものまですべての政治家が定期的に富裕層のお金を必要とするならば、富裕層はより大きな影響力を持つようになるでしょう。

政治家は定期的に資金が必要なのです。政治家は富裕層と話すのを好み、その意見を尊重します。ジェフ・サックスと私には多くの相違点がありますが、しかしながら私はこの件に関しては彼に完全に賛成します。
そこがOccupy Wall Street運動が面白いところです。そのサポーターは自由市場を信じないクレージーな左翼だけではなく、尊敬される経済学者も含んでいるのです。
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私もその一団に属します。私は確かに市場(の力)を信じていているのです。私は財産権と私有財産の重要さを熱烈に信じています。それらは繁栄の必須条件だと思います。しかし、これらは政争の具になりやすく、政治は一方に偏るべきではないことも信じています。Gore Vidalは、「アメリカにはただ一つの政党しかない。資産を持つ者のための政党だ。それは大企業やマネーに関連する関係者による政党で、2つの部位をもつ。1つは民主党(Democrat)で、もう1方が共和党(Republican)だ。」
これが正しいならば、これは自由市場とフェアな社会にとっての真の脅威です。この理由で、私はOccupy Wall Streetはとても重要であると考えいます。それは我々の政治システムの有するこのような傾向に立ち向かおうとする草の根の運動なのです。
あなたが選んだ最後の本13 Bankersは前IMFチーフエコノミストのサイモン・ジョンソンとジェームズ・クワックの共著ですね。彼らは金融危機において果たした役割にもかかわらず、大銀行はかつてないほど、より大きく、より利益を挙げ、より強い抵抗を規制に対してしめしている、と主張しています。
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この本は金融サービス業がどれほど強力になったかを示しています。そしてこれこそまさに金融業界にとって関心があることなのです。ファイナンスやマクロ経済や株式市場に何か問題がある場合Fedと財務省の高官は決まってなにをするでしょう?彼らはバンカーを呼ぶのです。
我々はどのようにしてアメリカがより不平等に、そして政治権力がより不均一に分散するようになったかについて話しています。これは双方向のプロセスなのです。富裕層がより富裕になると、彼らは我々の尊敬をより一層集め、彼らの意見はより広く受け入れられ、彼らはより一層政治献金とロビーイングに費やすための資金を得て、そして彼らはよりパワフルになるのです。彼らはこれにより、規制を曲げ、税率を減らし、彼らのビジネスに補助金を出させたり、その他諸々の政策により、ゲームを彼らに有利なように不正操作することができるようになります。(この本の)大まかなストーリーはこんな感じです。
ファイナンス業界はそのストーリーの最も顕著な例であり、13 Bankersはそのストーリーを見事に描き出しています。この本はファイナンス業界がどのようにして今のようなものになったかを示しています。それは金融業界が知的に天才的な能力をもっていたからではなく(ただ当然のことですが業界には本当に頭のいい人々がいます)、政治的に我々がある種の規制を取り除いたからなのです。我々はまた、バンカーたちのリスクテイクに対して政府の暗黙の保証を認めることで、彼らがシステムを通じ、途方もない利益を得ることができるようにさせたのです。そして金融危機発生後において、金融業界はあらゆる種類の徹底的な改革を頓挫させるのに十分なほど政治的に強力だったのです。それどころか、(システムにおいて)最も大きな重要性を持つほとんどの主要銀行はより大きくなり、経済を支配しています。実際最も大きな7つの銀行のシェアは2006年と比較して増えているのです。

私は不平等の原因として糾弾すべきは貪欲(greed)、特に企業の貪欲だと思います。
いいえ。私は貪欲であることを責めはしません。誰もがある程度までは欲深いのです。貪欲は人間の本性の一部であり、人間の本性を責めることはできません! 重要なのは我々が持つ人間としての衝動を適切に方向づけることを保証する制度なのです。我々は人々に野心的であってほしいのです。我々はスティーブ・ジョブスは野心的であるべきではなかったとはいいたくありません。彼は野心的であり、貪欲でした。そして、彼の貪欲さと野心は創造的な方向に方向づけられていたため、それらはよいことだったのです。問題は過去20年間の我々の社会において、そしてウォールストリートはこの申し子なのですが、我々は人々の(多くの場合男性の)野心と貪欲さをとても反社会的で、身勝手で、反社会的な方向に方向づけるプラットフォームをつくりだしてきたのです。スティーブ・ジョブスやビル・ゲイツにおいてはイノベーションにつながったリスクテイクがウォール・ストリートのバンカーたちにおいては政府や貧しい人々を犠牲にした途方もない振る舞いとリスクテイクにつながったのです。責めるべきは制度です。我々は我々の制度(を正しく構築すること)に失敗したのです。

解決策は何なのでしょう?
これは政治的な問題です、よってその解決も政治的になります。私が意図しているのは、アメリカの政治制度が、20世紀の初頭、黄金時代に示したのと同等の頑健さを持つための確認をするべきです。その時代においても我々は、人口の中の少数の派閥がとても裕福になり、とてつもない権力をもつという状況を体験したのです。政治のあらゆる場面にマネーが関連しました。しかし、最後には進歩的な運動(progressive movement)が起こったのです。主要政党である共和党、民主党の双方がその運動の要素を取り入れました。その運動はセオドア・ルーズベルト、タフツ、ウィルソンによるトラストや金融業や政治におけるマネーに対抗する法を制定するためのアクションにつながりました。その運動は真に全体の状況を変えたのです。これはアメリカの包括的な制度への重大な危機が起きたさいの例であり、この時アメリカの政治制度は復元可能だということを証明しました。我々は今同じことをする必要があるのです。それを学者による象牙の塔のなかでの夢想にしてはいけません。それはアメリカの人々が参加しなくてはならないものなのです。そのような運動は草の根からおこらなくてはなりません。Occpy Wall Streetはそのような運動になるでしょうか?私はそうは思いません。しかし、にもかかわらず草の根からの運動がどのようにして発展するかの示唆を与えるためOccupy Wall Street運動は重要なのです。そしてその運動は多くの人々が政治システムにおいて不公平であり、間違っていると感じているものを明瞭にしています。現時点では政党は(そのような運動の要望を)聞いていません。しかし私は楽天的です。これからの数年で今よりもっと人々の不満に対して耳を傾けようという趨勢が生じ、(アメリカの)政治制度が自己を(適切に)規制できるようになると思います。
問題の一端はアメリカの有権者が中絶や同性同士の結婚といった文化的なイシューをベースにし、彼/彼女らの経済的な利益に反する形で投票をしているからなのではありませんか?
いくらかそういう側面はあります。Thomas Frankの本What's the Matter with Kansasはそれについて述べています。FrankとBartelのそれぞれ双方とも正しいところがあります。しかし私にはLarry Bartelsのナラティブのほうがよりアピールします。人々はシステミックに彼/彼女等の利益に反する投票をするほど愚かなのではなく、一旦政治システムが下層において起こっていることに反応できないほど鈍感になると、下層の人々が何に投票しようが、また何を願おうが、それは重要ではなくなるのです。このような地点では、それらの人々は2次的な懸念に基づいて投票しがちになるでしょう。

2012年2月8日水曜日

アセモグル:アメリカの不平等についての5冊③

以下はインタビューの3/4。3冊目の本として、アセモグル自身の共著書であるWhy Nations Failをとりあげている。トップ層への富の集中を考える際に前回自身が重要だと指摘した政治のメカニズムについて、この本のフレームワークを使いながら概説している。なお、アセモグルは自身の指摘する3つの不平等のうち、政治権力の不平等な分布が社会にとって一番害が大きい、と考えているようだ。その次が機会の不平等で、経済的な不平等自体は、それがもたらす政治的な不平等の危険を除くと他の2つほどは重視していない(ここらへんは主流派の経済学者らしい?)。
Why Nations Fail by Daron Acemoglu, James Robinson
なお私はこの本は未読だが、Amazonの推薦人がすごい面子になっていて、Steven Levitt(「ヤバい経済学」著者)、Jared Diamond(「銃、病原菌、鉄」著者)、George Akerlof(ノーベル経済学賞受賞)、Robert Solow(ノーベル経済学賞受賞)、Peter Diamond(ノーベル経済学賞受賞)、Gary Becker(ノーベル経済学賞受賞)、Kenneth Arrow(ノーベル経済学賞受賞)、Francis Fukuyama(「歴史の終わり」著者)、Niall Ferguson、Dani Rodrik等々、アカデミズムのスーパースターが目白押しという感じで、壮観である。
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彼らが指摘することの一つとして、アメリカとイギリスにおいてのトップ層の所得シェアがレーガン及びサッチャー政権のもとで上昇し初めていることがあります。上昇する不平等は単にレーガンとサッチャーが富裕層への税金を減らした結果ではありませんか?d
個人的にそれは、一定の役割をはたしているにせよ、主要な事柄ではないと思います。キャピタルインカムにおいて、それはたしかに役割を果たしました。トップ0.1%層を見ると、彼らの多くはキャピタルゲインによって所得を得ています。したがって資本取引を厳しく課税すると、富裕層の手元に残る資本は今のようには多額のものではなくなり、資本取引による収益は今のように(階級別にみて)不均一にはならなくなるでしょう。そこに対する課税には機械的な効果(mechanical effect)があるでしょう。しかし、より(影響の)微妙な2種類の効果が課税によって発生します。1つ目はより累進的な税率(富裕層がより大く支払う)は人々の一生懸命働こうというインセンティブとそのための努力を阻害する可能性があることです。これにより、彼ら(富裕層)の所得は減り、したがって不平等も減るでしょう。それは非効率かもしれませんが、高い税金を賦課するさいにおこることの1つです。2つ目として、そのような課税は人々が自身の給料を上げるために会社と交渉をしたり、"レント・シーキング(訳注:必ずしも会社の利益に一致しない個人の利益追求活動)"をしたりするさいのやり方を変える可能性があります。私はこれが大きな要因になるとは思いませんが、一例として極端な例を挙げると、もしトップ層の所得に99%の税率が課せられると、CEO達が自身の給与を上げるため法律的にグレーな活動をしようとはしなくなるでしょう。そのような活動をしても彼らが得られるものは何もないのですから。反対にもしトップ層の税率が30%で、CEOが(ストック)オプションから所得を得られるならば、彼らはエンロンのCEOのKenneth Rayがしたような振る舞いをしたくなるかもしれません。彼らはそのような活動の見返りに、より多額のお金を得られますから。したがってトップ層への高い課税は、彼らの労働供給を非効率に減少させるかもしれませんが、また同時に彼らのレント・シーキング活動も減少させるかもしれません。
それでは、あなた自身の考え方をより詳しく知るために次のWhy Nation Fail: The Origin of Power, Prosperity and Povertyについて話しましょう。d
このトップ層の不平等について理解するに当たり、私はこれは政治の問題ではないかと申し上げました。我々は政治についてどう考えるべきでしょうか?政治の役割とは何なのでしょうか?それについて考えるために、我々には概念的なフレームワークが必要ですが、この本はそれを与えようと試みています。この本は私の長年の共著者であり友人でもあるJim Robinsonとの共著です。この本はアメリカ、イギリス、カナダなどの不平等について論じた本ではありません。この本は何千年もの歴史を要約し、ソサエティー(societies)がどのようにして機能し、なぜそれがしばしば構成員である市民に繁栄をもたらすのに失敗するのかの説明を試みています。それはとても政治的なストーリーです。我々のフレームワークの核心は政治的権力を持つ人々と彼らがどのようにしてその権力を自己の利益に資し社会のその他のメンバーの利益に反する形で使うことができるかの間にある緊張関係です。我々はゼロ-サム関係にある社会に生きているわけではありませんし、多くの社会が活用してきた(皆に)繁栄をもたらす能力が存在します。しかしまた、(社会に)ゼロ-サム的な側面があることは確かなのです。しばしば誰が最も大きな分け前を得るのかについて社会の内部に緊張関係があり、人々は自分達がその分け前を得るため、我々の社会の基礎構造をコントロールしようとします。そしてそれが社会がどのようにして社会制度を発達させてきたかについて理解するため、我々(著者達)がつくりあげたナラティブなのです。絶対主義のもとでの社会制度は社会のなかで政治的な権力と経済的な利益(economic outcome)のとても不平等な分布をつくりだしました。この2つの不平等は互いにシナジーをもって働きました。とても不平等な政治権力がとても不平等な経済的利益を固定化したのです。これは負の連鎖を引き起こしましたが、この連鎖がもたらしたコンフリクトはしばしば、この不平等な分布が依拠する制度そのものの崩壊に行きつき、より広かれた社会制度への道を開き、そのような広かれた社会制度が繁栄のためのエンジンの一つとなってきました。
本の最後のパートは逆向きのストーリーです。つまり政治的権力の平等な分布と、よりフェアーな機会をつくりだしてきたこのような包括的な諸制度(inclusive institutions)に対し、どのようにして絶え間のない変更が加えられていくかというストーリーです。このような包括的な諸制度はすべてが公平に分布されるのを保証するものではないのですが、少なくともリソースのもっとも悲惨でアンフェアーな分布を防ぎます。そのような制度はまた、社会のなかで政治権力がより均等に分布することを保証します。しかしながら、このような制度が永続する保証はありません。もしほんの少しのサポートと政治的な権力が得られるならば、人々がこれらの制度を自己の利益になるよう改変し始めることができるという危険は常に存在するのです。政治制度の包括性(の存続)に対しては常に危険が伴います。したがってこのフレームワークにおいては、アメリカにおける不平等の増大がもたらす危険な徴候を、過去200年間にわたりアメリカが維持してきた相当程度に包括的な諸制度に対するチャレンジとなるような徴候と見なすことができるのです。
一言でいうと、今まで上手く機能してたからといって、自分達の政治制度について自己満足におちいることはできない、ということですね。
そうです。我々は他の社会においてどのようにしてそれらの社会の諸制度が180度の転換を経たかの例を本に挙げています。例えば、ベネチアを例にとってみましょう。ベネチアは当時他に類をみないような包括的な諸制度を有していましたが、それらの諸制度は小集団によって徐々にコントロールされていき、最後にはベネチアが成し遂げた進歩は無に帰しました。
つまりあなたは、他と比較した場合のある国の繁栄はその国の地理、気候、文化ではなく、その国が有する政治システムと関係があると考えているのですね?
d
ええ、その通りです。私はこれが議論を呼ぶような見方だとは考えたこともありませんでしたが、事実は確かに議論を呼ぶ見方でした。我々は文化や地理などといった要素が、決定的な役割を果たすと考えるよう条件づけられています。なぜならば我々はそれらを常に在るものとみなしますから。それらの要素は存在し、したがってそれらは重要に違いないというわけです。メキシコ・シティがニューヨークよりもこんなに暖かいことが重要でないなどということがありえるでしょうか?ある人々がイスラム教徒であり、ある人々がキリスト教徒であることが重要でない、などということがありえるでしょうか?しかしながら、実際はこれらの要素のどれも、見た目ほどに(重要であることが)明白ではないのです。我々は(本の)前の方の章で、今日世界で繁栄している地域のうちどれほど多くの部分が、ヨーロッパ人がそれらの地域を植民地化するために到着したときには比較的後進的な地域であったかを実証しています。しかしながらメキシコやペルーといった地域はその当時は最も文明が発達し、発展していた国でした。これらの国々にそれぞれ異なった形で課され、その後の後退と分岐につながったのは一連の政治的および経済的な諸制度だったのです。文化及び宗教的価値についても同様のことがいえます。これらの要素と経済的繁栄の結果との間の関連は一定のものではありませんでした。経済の繁栄の度合いは、往々にしてこれらの地域が経てきた異なる政治的歴史の結果なのです。
それならば、より公平な社会というのは常によりよく、より繁栄する社会なのでしょうか?
d
そこには3つの異なった概念があります。1つ目は政治権力の平等さです。2つ目は機会の平等さです。3つ目は経済的果実の平等さです。もしわれわれが経済的果実の平等を課せば、その社会はとても非効率な社会になるでしょう。なぜなら繁栄をつくりだすエンジンは個人が所有権を有することを必要とします。つまり個人が努力をして、一生賢明働き、投資をするというインセンティブを持つことが必要なのです。それは必然的に不平等に結びつきますが、もしその不平等を防止しようとすれば、それは多大な非効率をもたらし、おそらくは成長を阻害するでしょう。
例を挙げましょう。ソフトウェア(をつくりだす)起業家に課税することは、アメリカのテクノロジーにおけるリーダーシップを促進しようとする試みにとって、ベストな方法では決してないでしょう。しかし機会の平等について話す場合は別です。もし(社会に)機会の平等がなければ、それはアンフェアな社会をつくりだすのみならず、そのような社会はリソースを最適な形で配分しないでしょう。ソフトウェアの例に戻りましょう。もしテクノロジーにおけるアメリカの創造力を向上させたいならば、我々がなしとげたいことは、(アメリカの)ベストな頭脳が、実際に彼らの望む職業につくことができるような機会を与えるプラットフォームを用意することでしょう。もしソフトウェアにそのようなプラットフォームがあれば、それはソフトウェア産業により優れたイノベーションをつくりだすでしょう。
更に重要なのは、政治権力の平等です。政治権力がとても不均一に分布していると、必然的に政治権力を持つものがその権力を使い、自身のために機会の不平等をつくりだし始めるでしょう。彼らは他の人々から持ち物を奪い、物資を収用し、社会を害するように政治的権力を使おうとするでしょう。

個人的に私は、個人がなした異なった貢献を正しく反映しているならば、社会における経済的な不平等の上昇は完全に許容できます。それは繁栄に貢献するよう人々に対してインセンティブを与えるため、我々が支払う代価なのです。しかし、これには一つ但し書きがあります。もし、最終的に所得がとても不平等になる場合、それに正当な理由があるとしても、そのような不平等は動的な問題(dynamic problems)をつくりだすかもしれません。なぜなら大きな富を持つようになったものは、今や社会における大半のリソースをコントロールすることになるため、彼らはそのリソースを政治権力の不平等な分配をつくりだすために使い始めるかもしれないからです。

2012年2月7日火曜日

アセモグル:アメリカの不平等についての5冊-②

今回から具体的に文献を挙げての解説に入っている。なおAcemogluがこのインタビュー中で「アメリカの不平等を考える際の5冊」として挙げるのは以下の文献である。
今回は最初の2つが紹介されており、最初の本で教育システムの失敗による不平等の拡大を説明し、次の論文で教育システムの失敗だけでは説明しきれないトップ層の総所得に占めるシェアの増大等を説明している。
    *****
    Five Books Interview Daron Acemoglu on Inequality (2/4)
    あなたが選んだ本を見ていきましょう。あなたの最初の選択はHarvard University Pressから出版されたThe Race between Education and Technologyですね。あなたが事前に私に送ったメールでは「不平等に興味を持つ人にとっての必読書」としていますね。詳しく話してくれますか。
    d
    これは本当に素晴らしい本です。本は賃金が貢献や生産性に比例する標準的な経済モデルについて優れた解説となっています。本では何が異なる個人と異なるグループの生産性を決定するのかについてとても明確な形で強調しています。著名なオランダ人のエコノミストであるジャン・ティンバーゲンが名付けたフレーズを鍵にして、分析をおこなっています。鍵となるアイデアは、技術的な変化はしばしばより高度な技術を持つ労働者への需要を増加させるため、不平等の拡大を防ぐためにはその国の経済において技能を備えた労働者の供給を常に増加させる必要がある、ということです。彼(ティンバーゲン)はこれを「教育と技術の競争(the race between education and technology)」と呼びました。もしテクノロジーが競争に勝つと、不平等は上昇傾向となります。教育が勝つと、不平等は減少傾向となります。
    著者であるClaudia GoldinとLarry Katzは実際のところ、このモデルが過去100年くらいのアメリカの歴史を説明するのにとても良いモデルであることを示しています。彼らは20世紀の最初の50年間におけるアメリカの教育システムがどのように形成され、なぜそれがとても進歩的であって、教育を受けた労働者の大規模な供給につながったのかについて、見事な歴史的な報告を行っています。このシステムによりアメリカは世界の他の多くの地域と比較してより平等な社会をつくりだしたのです。
    彼らはまた、過去30年から40年の期間において全体の状況を変えた3つの要因を指摘しています。1つ目は過去に比べテクノロジーがよりスキルを持ち、所得の高い労働者に有利に働くようになったことです。したがってほかのすべてが等しいとすれば、これは不平等を増加させるでしょう。2つ目は、我々がグローバライゼーションを経験しつつあることです。低技術の労働者の賃金が安い中国等との貿易は(アメリカの)賃金の低い労働者にプレッシャーをかけつつあります。3つ目として、おそらくもっとも重要なものは、アメリカの教育システムはある階層においてひどく失敗してきたのです。我々は大学や高校を卒業した若者のシェアを増加させることができませんでした。とても注目に値することであり、ほとんどの人々は実際これについて想像することもできないでしょうが、アメリカにおいて高校の卒業率が最も高い世代は1960年代半ばに卒業した世代なのです。実際のところ我々の高校卒業率はそれ以来下がり続けているのです。大学を見ても同じことです。これはとてつもなく重要であり、同時にとてもショッキングなことです。これは技術(をもった労働者の数)を本来あるべき以上に少なくするため、不平等に対して大きな影響を与えます。
    GoldwinとKaztは何故アメリカの教育が失敗しているのかという理由について述べていますか?d
    彼らは勿論それについて論じています。しかし理由は誰も分かりません。理由は単一でシンプルなストーリーではありません。我々の教育支出が減っているわけではないのです。実際我々はより多く支出しているのです。大学(の学位)が評価されない、という理由ではありません。大学(の学位)はとても高く評価されるのです。大学卒がもたらすプレミアム(高校の卒業生と比較して大学の卒業生が稼ぐ比率)は急速に上昇しています。アメリカは低所得(の学生が通う)学校に十分な投資をおこなっていない、という理由でもないのです。多額の投資がそのような学校に対して行われています。州と連邦政府の双方から、無償での投資だけでなく、多額の助成金やその他の形での支出が行われています。
    簡単な答えはないということですか?
    d
    そのとおりです。簡単な答えはありません。しかしこの問題がトッププライオリティになることが重要です。できることが多くあります。学校の改革と学校への投資は特効薬ではありませんが、確かに助けにはなるのです。
    アメリカは世界で最高の大学を持っているのに、これは皮肉なことですね。あなたはトルコ人ですが、ここにいます。多くの外国人がまさにその教育システムによって、この国にたどり着きます。
    そのとおりですが、それはもろ刃の剣として作用します。アメリカは機会の国であり、多くのエンジニア、科学者、PhDを集めてきました。一方では高校と大学の卒業率の低さの1つの要因として言えるのは、アメリカはあらゆる種類の移民に門戸を開いてきましたが、移民の統合のプロセスがしばしば遅いことです。高校と大学について見ると、特にヒスパニック系の移民についてですが、移民の卒業率は移民でないもののそれよりもはるかに低くなっています。
    了解しました。それでは、あなたが選んだ文献について続けましょう。Anthony Atkinson, Thomas PikettyそしてEmmanuel Saezという3人のヨーロッパのエコノミストの"Top Incomes in the Long-Run of History"という論文ですね。
    d
    GoldwinとKatzの本で抜けているのは、彼らはトップ10%のなかで何が起こっているのかについてまったく注目していない点です。それは全体のストーリーの中でとても重要な部分であり、より注意が払われるべきです。トップ10%、特にトップ1%の中でとても興味深いことが起こっているのです。Atkinson、Piketty、Saezはこの問題についてのパイオニアであり、この本は彼らのリサーチの大部分についての概観です。彼らの論文が示すのは、下位と中位の労働者の間での大学プレミアムと不平等の上昇と同時に、アメリカ、カナダ、イギリスその他の国の国民所得に占めるトップ10%及びトップ1%層のシェアのより一層の上昇が起こっているということです。
    この論文で重要なのは数字ですか、それとも(この現象に)彼らが与えている説明ですか?d
    何が起こっているかについて知るために、私にとっては、この本の数字がより重要です。Occupy Wall Street広汎な世間の関心をトップ1%層に引き付けましたが、過去10年に渡ってそれについて学会の関心を引き付けたのはAtkinson, Piketty, Saezなのです。しかし彼らが言うことのいくつかは重要なので彼らの説明も読む価値があります。例えば彼らはこのような数字は、GoldwinとKatzが重視したような標準的な労働供給、労働需要によるモデルで説明しきるのはとても難しいことを強調しています。(この現象の説明のためには)そのようなモデルは役に立ちません。したがって我々は社会政策、累進課税、それらを取り巻く政治等について考える必要があるのです。
    彼らは100+年に渡って20か国を調査し、彼らの要約によると、彼らの主な実証的発見は「ほとんどの国々では20世紀前半にトップ層の(国民所得に占める)シェアの劇的な低下がおこった。しかし、過去30年に渡り、英語圏の国とインド、中国においてトップ層の所得シェアが急激に増加した。大陸ヨーロッパの国々と日本においてはそのような上昇は見られなかった。」
    このパターンはとても顕著であり、アングロサクソン諸国はこのパターンを先導しました。このパターンはフランス、イタリア、スペインなどの他の多くの国々でも見られましたが、アングロサクソン諸国ほど顕著ではありませんでした。このU字型のパターンは90パーセンタイルと10パーセンタイルの比率や大学プレミアム等のトップ層ではない層の不平等にも当てはまるのです。例えばGoldwinとSaezの本は大学プレミアムは1900年の初頭のほうが1940年代や50年代よりも高かったことを示しています。そのあと数十年それは安定し、1980年代に上がり始めるのです。
    トップ層の所得という場合、彼らはトップ1%にフォーカスしているのですか?それともトップ10%ですか?
    d
    彼らは税金記録からデータを取得しています。したがって彼らはトップ10%、トップ1%、トップ0.1%等々のデータを得ています。彼らが注目する2つのデータは10%とトップ1%です。時々彼らはトップ0.1%層の数字さえ示しています。この数字については国ごとに驚くほどの差異があります。0.1%に注目すると、多くの国では1%や2%くらいですが、アメリカの0.1%層(の所得)は総国民所得の8%を占めています。アメリカにおいてもその比率は急激に上昇しています。1950年代にはアメリカにおける同様の比率は約3%でした。

    2012年2月6日月曜日

    アセモグル:アメリカの不平等についての5冊-①

    現在のアメリカにおいては高所得者層と低所得者層との間で富が不平等(inequality)に分布している、と主張される。以下ではMIT教授の経済学者ダロン・アセモグル(Daron Acemoglu)がThe Browserというサイトで文献紹介を通じ、この問題について語っているインタビューを和訳する。今回はその1回目。
    *インタビューの分量が多いので4回に分ける予定。なおいつもながら見直し等をしないで荒く訳しているので精確さの保証はしません。

    以前このブログでも取り上げたがアセモグルはトルコ生まれ(1967年)で現在はMIT経済学部教授。40歳以下の優れた業績を挙げた経済学者に贈られるジョン・ベーツ・クラークモデルを受賞している(ちなみにこの賞の歴代の受賞者にはBecker、Stiglitz、Spence、Krugman、McFadden等の多くのノーベル経済学賞受賞者がいる)。成長論、政治経済学、技術進歩、等カバーする分野が大変広く、不平等に関しての研究もおこなっている。アメリカの主流派経済学の若手のスーパースター的な存在で、その彼がこの問題について考える際の重要文献の紹介を通じながら自身の見方を(難解な経済の理論モデルによらず)平易な話し方で詳説している点で貴重なインタビューのように思える。

    Daron Acemoglu Source: MIT HP  

    話柄は多岐に渡るが、インタビューの要旨としてアセモグルはアメリカの不平等を考える際は以下の2つを分けて考えるべきことを指摘している。
    • トップ10%と下位90%との間の格差⇒教育システムの問題:トップ1%層と他の層との比較のように目立つものではないが、重要な論点。アメリカの教育システムが「技術(変化)との競争」において後れを取り、結果として技術変化の速度についていけるような技能を備えた労働者の供給に失敗しているという問題
    • トップ1%(あるいは0.1%)とその他の層の格差⇒政治システムの問題:Occupy Wall Streetが指摘するようにアメリカのトップ層や大企業がマネーの力を通じて政治に対して不健全な影響力を行使し、自身を利しているという問題
    *****
    Five Books Interview Daron Acemoglu on Inequality (1/4)

    不平等(Inequality)は現在のニュースに多く登場します。それについて我々はどう考え、理解するべきでしょうか?
    不平等は過去30年あまりの期間において、米国およびその他の国で大きな変化のあった事柄の一つです。多くの物事はあまり急激には変化しませんが、不平等については変化があったのです。何故このような変化がおこり、それが我々の社会にとってどのようなことを意味するのかを理解することは重要です。したがってそれがニュースに登場するのはよいことです。それは重要なトピックでありタブーとして扱うべき理由は何もありません。そうはいいながらも、不平等についてどう語るかについては社会科学者の間でコンセンサスがなく、平均的なエコノミストの不平等に関する考えは平均的な素人の考えとおそらく大きく異なっています。私は一方が正しく、他方が間違っているといっているのではありませんが、両者の対話のさいには、双方の異なった視点をテーブルに乗せることができるように話柄を広くとる必要があります。
    エコノミストの意見とはどのようなものですか?
    エコノミストのデフォルト(既定値)としての立場は、不平等は異なる従業者間で同等ではない人的資本や生産性を反映している、というものです。この前提、それはつまり人々の所得は彼らの雇用主やそしておそらく社会に対する彼らの貢献につりあっているという前提ですが、から出発すると、拡大する不平等は私たちに人々の生産性が時間に沿いながらどのようにして発達してきたかを告げることになります。すべてのエコノミストがこう信じているわけでは決してありませんが、これは一般的な見方です。エコノミストがこの問題について取り組むさいには、アメリカやほかの国における過去30年にわたる大学(の学位がもたらす)プレミアムの上昇や高所得者層(所得分布の90%層)と低所得者層(所得分布の10%層)との間のギャップの上昇等を調査してきました。我々は様々な見方で計測した場合、不平等の急激な上昇を目撃してきており、これは高学歴で高所得であるトップ層の人間がより一層高いスキルを有するにようになってきたという事実を反映しています。テクノロジーは高所得者層に有利に働きました。グローバリゼーションもそうです。不平等はこれらの要因で上昇してきたのです。
    それはつまりあるCEOが5百万ドルを稼ぐのは、彼がその金額に値するからということですか?
    そのような疑問が生じるので、私は90パーセンタイル vs 10パーセンタイル(層の比較)に重点を置くのです。なぜかといえば一旦そのような超高所得層のレベルに注目すると、全体のストーリーが少し呑み込みにくくなるからです。エコノミストは、ほとんどの場合、2つの理由からその類のCEOには注目しません。理由の一つは、この状況は変化してきていますが、公開されているデータソースからはCEO達の情報を得ることができないからです。なぜならCEOは(あるいは途方もない大金持ちは)そんなにたくさんいないからです。なので例えばあなたがアメリカの家計の1%からサンプルをとるとすると、あなたは彼らのデータをたくさん得ることはできないでしょう。理由の二つ目はデータではトップ層の所得が隠されてしまう(top coded)からです。彼らが正確にいくらの所得を得ているのかを知ることはできません。彼らが250,000ドル(以上)の高額所得層に属しているということは分かりますが、彼らが実際は25百万ドル稼いでいるかどうかはわかりません。これらの理由から労働経済学者による文献の多くが、「大卒の学位を持つものは高卒の学位を持つものに比べより高い所得を得ているか?」、「院卒者の所得はより高いか?」、「弁護士間、医者間、あるいは工場の労働者間の給与の不平等についてどのようなことが起きたか」といった問題にフォーカスしてきたのです。
    あなたの意見ではエコノミストではない人々はどのように考えるでしょう?d
    私が専門家ではない素人の視点を劇画化してみると、不平等は社会において何か間違ったことが起きつつある証しだというものです。もしあるグループに属する人々が他のグループに比べて2倍の所得を得ていたとして、20年後にそれが4倍に拡大した場合には、それは懸念するべきことであり、社会政策の失敗を意味しているかもしれない、というものです。私自身の見方はこの2つの見方をミックスしたものです。平均的な大卒者と平均的な高卒者を比べた場合、もしくは90パーセンタイルと10パーセンタイルを比べた場合、エコノミストが重視する事柄(テクノロジー、グローバライゼーション、オフショアリング、アウトソーシング、スキルの変化、その他もろもろ)が大きな役割を果たし、おそらくはストーリーのほとんどを説明するかもしれません。しかし超トップ層の不平等、つまりなぜトップ0.1%層が途方もない金額を稼いでいるのかについて理解したいならば、我々は社会政策と政治について考えなければならないでしょう。
    現実の数字から見て、アメリカとイギリスの不平等はどれほど悪いのでしょうか?
    d
    Thomas PikettyとEmmanuel Saezの研究によれば、1950年代から1970年代にかけて、アメリカにおいてトップ1%層が国民の総所得に占めるシェアは約10%でした。2000年代についてこの数字を見ると20%を優に超えます。それは25%近くまで上昇し、その後下落しています。イギリスにおいては7%近辺から15%くらいまで上昇しました。不平等に至るトレンドはアングロサクソンの国々の過去50年間においてとても似ています。それがアングロサクソンに限られた現象でないことを言っておく必要がありますが。いくつかの国ではそのような現象が目立つ範囲では起きませんでしたが、多くの国の経済で同様のトレンドが見られます。
    いくつかの国とは?
    フィンランドとスウェーデンです。それらの国々でもトップ層の得るシェアは上昇しています。CEOが多くの報酬を得る多国籍企業の拠点がそれらの国々にあることを考えれば、これはそれほど驚くべきことではありません。しかしながら上昇ははるかに小幅です。(それらの国では)トップ1%が国民総所得に占めるシェアは大幅に低いものになっています。
    Facebookで出回っているあるではCEOと労働者の所得を比較しています。たとえば日本においてそれは11対1です。ドイツでは12対1です。アメリカでは475対1です。あなたからみてこれはあるべき姿に思えますでしょうか?d
    それについてすぐには答えが思いつきません。そのリストはどのCEOを含めるかで左右されそうです。しかしアメリカではCEOと労働者の賃金の比率はとても、とても高いです。Fortune500の会社の(CEOの)平均賃金を見れば、それはアメリカの労働者の給料の200倍以上です。これは他国での同様の数字と比べてたしかに高い数字です。
    出所が分からない場合、こういう数字を信頼していいのかどうか分かりません。
    それはエコノミストが用いる数字についてさえも同じことが言えます。これらの事柄を計測するのには多数の異なる方法があります。たとえば、労働所得(labour income)を見れば、トップ1%が得るシェアは低くなります。なぜなら、彼らの取得の大部分はキャピタルゲインから来ているからです。どの数字を見るかはとても重要です。

    2012年2月2日木曜日

    上位1%所得の割合-時点比較(1980, 2008年)

    次回から数回、アメリカの経済学者による世界(主にアメリカ)の所得分布を扱ったポストを載せていく予定だが、その前提知識としてThe Big Pictureというブログに載っていた「トップ1%層の所得が国民の総所得に占める割合」を示したクロスセクション(1980/2008年)でのグラフを以下に貼り付けた。

    なおこのブログでは以前、各国のトップ1%層の所得割合を時系列で比較したポストを載せている








    以前のポストでも指摘したように、トップ層が総所得に占める割合の比率は1940年以前は高く、第二次大戦後1940年代に急低下、その後1970年代まで低位安定した後、上昇に転じている(U字型を描く)。

    なので上に見るようにほとんどの国で1980年よりも2008年のほうが比率が高い。

    特にアメリカ(トップ1%が総所得の18%)・イギリス(同14%)の所得格差*は急増し、スウェーデン、オランダ、デンマークなどは所得格差がほとんどひろがっていないことが分かる。
    *「トップ1%層の総所得に占める割合」を「所得格差」としていいかどうかは議論があるが、ここでは両者を同一視した。