2012年2月22日水曜日

おとなのけんか

おとなのけんかを見てきた。人の善意とおとなの不毛さを嗤いあう、すばらしい映画でした。人生に出口はないので、せめてお互いに嗤いあいましょう、的なのりでこういうのを「大人の映画」っていうのだろうか?映画館の中は上映中笑い声が絶えませんでした。

あらすじは双方の子供が起こした喧嘩の始末について話し合うため、2組の夫婦が部屋に集まるところから始まる。最初はお互い誠意を見せて歩み寄ろうとしていたが、徐々にお互いの本音をぶつけるようになり、やがて子供のこととは関係のない、夫婦関係や価値観についても罵り合うようになっていく。。。という筋で、ほぼ密室のなかで80分が過ぎる。

セットの変更などがほとんどない仕掛けであり、必然的に俳優の力量が前面にでてしまう構成だが、出演者は芸達者な4人(ジョディ・フォスター、クリストフ・ヴォルツ、ケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリー)。












もっともストレートに嫌なやつ(常に携帯を手放さない製薬会社担当のやり手弁護士)の役をあてがわれ、やりたい放題やれるクリストフ・ヴァルツの演技は当然上手いが、「スーダンでの虐殺に涙を流し、芸術の価値を信じている」という見かけ上では一番の常識人を演じたジョディ・フォスターも大いに賞賛されるべきだろう(「ここはニューヨークよ!」には笑った)。ジョン・C・ライリーは「気立てのよい亭主」から「本音丸出しの下衆夫」への転換を見事にこなす。ケイト・ウィンスレットは見事な嘔吐と酩酊で場面を転換させつつ(「フジタの画集の上に嘔吐」の場面では場内大笑い)、床に散らばった化粧品を泣きながら拾い集める。

誠意と寛容が敵意と八つ当たりと徹頭徹尾自己本位な嘆きと居直りへと展開する脚本はただただお見事。

ポランスキーの戦場のピアニストには人間のどうしようもない性(大きな悲劇から逃げ回りながらも、夜中に部屋に入り込んでピアノをひかずにはいられない)が描かれていたが、この映画では人間のどうしようもなさを前提に、そのなかでこりなく、あくどく、ある時は図々しく、またある時は女々しく生きる大人達の不毛さがある種の清清しさをうみだしている。最後は女同士でお互いの人生を嘆きあう場面もあるのだが、哀愁や共感や救いなどはまったくうまれない。自己本位な大人同士が手前勝手な理屈を述べ立てつつ、お互いにののしりあい、不機嫌に時を過ごす空間を80分見ることができるという、ある意味で大変贅沢な映画。こういう映画がつくられることは「文化」の豊かさのあらわれなのかもしれない(適当に書いているが)。

ストーリーの大きな転換が生理現象(嘔吐と酩酊)によって起こるのも、ある種の諦観ともとれる(おとななんてどんなに上辺をとりつくろおうが気分次第、というような)

村上春樹風にいうと「いい人が一人もでてこない、いい映画」でした。