2012年2月27日月曜日

ドイツ人の本性・・・

マイケル・ルイスはヨーロッパ各国の金融危機への対応を論じた新著「ブーメラン」でドイツについて扱っている。ルイスはアメリカの鳥類学者アラン・ダンデスがドイツ人の特性としてあげているものをとりあげている。今日はダンデスの(素人)ドイツ文化論の紹介。

ダンデスによればドイツ人は「表向きは汚物に嫌悪を示しつつも根底では執着する」という気質をもっており、ヒトラー(「みずからの排泄物の観察に常人離れした情熱を注いだ」)やモーツァルト(「糞便に思いを馳せるのは、この上ない贅沢だ」という手紙を残した)にも同様の傾向がみられる。そして、この性質は庶民にもおよんでいる。
ダンデスがハンブルクの歓楽街に興味を惹かれたのは、地元の客がここで行われる"泥レス"に熱狂していたからだ。裸の女たちが泥を満たしたリングで戦い、見物客は飛沫をよけるためにプラスチック製のフード、いわば頭用のコンドームを着用する。「こうすることで」と、ダンデスは綴る。「観客はみずからが汚れることなく、泥んこ遊びを楽しめるのだ!」。ドイツ人は糞の近くに寄りたがるが、中には踏み込みたがらない。(159P)
ルイスによると、このような性質はドイツの金融機関の金融危機における振る舞いも説明する。ドイツの金融機関は国内向けの業務ではとても慎み深いのだが、国外向けの業務では「垣根から出て、わざわざ泥にまみれようとした」。
過去10年間でドイツが関与し損ねた金融災害といえば、バーナード・マドフの詐欺事件ぐらいのものだろう(ドイツの金融システムにユダヤ人がいないことが幸いしたおそらく唯一の例)。どう見ても常軌を逸しているこのドイツの銀行家たちが、国内では一転、慎み深くなる。これまた清潔な外面と汚い内面の好例だろう。少し泥にまみれたくなったとき、ドイツの銀行は国の外に出るしかない。(168P)
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ドイツ人の生理的な事象への固執(ダンデスにいわせると「スカトロジー」)を指摘するのはルイスだけではない。

モンタネッリ/ジェルヴァーゾの「ルネサンスの歴史」にはマルティン・ルター(「国語の父」であり「イタリアにおけるダンテ、イギリスにおけるチョーサーの地位を、ルターはドイツで占めているのである。」)についての以下の文章がある。
成功の絶頂にあっても、ルターの生活は相変わらず質祖なものであった。「ルター派」という呼称を嫌って「福音派」と呼ばれるのを好み、全集出版の話が出た時は、そんなものは聖書理解の妨げになる、読むに値する書物は聖書だけだと言って、すぐに退けてしまった。使途や聖者や教祖などという気取りは全然なく、かれを崇め奉ろうという人には、「神様は私に、ちゃんとうんこを出すだけの力も与えた給わなかったんですよ」と、ぶっきらぼうに答えるのが常だった。かれのユーモアには田臭があり、この種の生理的モチーフに固執した(引用者強調)。「私の敵たちは飽きることなく私をスパイしている」とかれは言った。「私がウィッテンベルグで屁をひると、奴らはローマでその臭いをかぎつけるのさ」。
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マルティン・ルター(1483-1546)
「わたしは熟した糞であり、世界は巨大な肛門である。」(ルイス ブーメラン,158P)