2012年1月31日火曜日

核を持った国の振る舞いは変化するのか?

イスラエル人ジャーナリストのRonen Bergmanが1月25日付のNew York Timesに、イスラエルのイラン攻撃について論じた論説を掲載し、この記事は大きな評判を呼んでいる。Bergmanは最終段落で以下のように述べている。
After speaking with many senior Israeli leaders and chiefs of the military and the intelligence, I have come to believe that Israel will indeed strike Iran in 2012. 
多くのイスラエルの指導者、軍部及びインテリジェンスの長官と話した後、私は2012年にイスラエルがイランを確かに攻撃すると確信するようになった。
Source: Gardian
実際にイランの核開発を巡りイスラエル-イラン間に緊張が高まっているのは確かなようで、日本の新聞も記事を掲載している(一例)。

今回翻訳した以下の記事はアメリカのポリティカルアナリストたちが運営するブログThe Monkey Cageに載ったポスト(How do states act after they get nuclear weapons?)。

著者は「そもそも核兵器を持つと国は攻撃的になるのか?」という問題提起をしている。途中の分析は少し弱いようで(有意水準がp=10%だし、サンプルも少なさそうだし)、分析自体の説得力はいまいちだが、問題提起自体は研究する価値があるように思う。なおJames Fearonはスタンフォード大学の政治学教授である。

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核兵器を得た後、国家はどのように振る舞うか?/How do states act after they get nuclear weapons?
by James Fearon, January 29 2012
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イランに対するアメリカと/またはイスラエルによる先制攻撃を扱うこれらすべての記事を読んで、私は核兵器を得た後の国家が紛争時にとる行動の歴史的な履歴について知りたくなった。国家が深刻な国際紛争に関与する率は上がるのだろうか?それとも下がるのだろうか?または核を持ったとしても変わらないのだろうか?
Matthew Kroenigのようなイランへの先制戦争の支持者は核を得た場合、イランは今よりはるかに攻撃的になると予想している。反対にKen Waltzのような核拡散に対する楽観者は我々は度々、核武装した敵によってひどいことが引き起こされると予想してきたけれども、我々はどちらかといえば繰り返し、その反対が正しかったことを見てきた、と主張している。たとえばソビエトとアメリカは特段の証拠なしに、(中国の)毛が核兵器を持った場合、彼はより攻撃的で、危険で、ファナティックになると考え、それを防ぐため(毛への)先制攻撃について熟考した。しかし核兵器取得後、間違いなくより現状維持に重点を置いた中国外交(a more status quo oriented Chinese foreign policy)が続いた。

特に最近の5年間において、国際関係論の専門家の多くが利用できる数量データを使い、核兵器と国際紛争の間に見られるパターンについて探り始めた(Erik GartzkeDong-Joon JoRobert Rauchhaus、そしてMichael Horowitzの研究を見てほしい)。種々の興味深い発見が見られたが、それらの発見を見回しても私が見たかったことは見つけられなかった。私が見たかったのは、単純な国レベルにおける核の取得前と後での紛争への関与率に関する調査だった。
よって、私のほうでZeev Maozバージョンの国家間における軍事関連紛争のデータを使って、それらをまとめてみた。以下のグラフは、1945年から2001年までに核兵器を取得した9つの国のそれぞれについて、核を持っていなかった期間における年間での軍事関連紛争の発生率と持った後のそれとを示している。アメリカが核をもったのが1945年なので、アメリカについては核を持つ前の軍事関連の紛争データは存在しないこと。ロシア/USSRの核取得以前の軍事関連の紛争発生率はわずか1945-1948年の間のものであること。南アフリカは1982-90年のものであること、紛争関連のデータは2001までしかないこと、に注意してほしい。
中国、フランス、インド、イスラエル、パキスタン、イギリスはすべて、核取得後の期間において軍事関連紛争の発生率が低下している。多くの国で大きな低下が得られる。USSR/ロシアと南アフリカについては核取得後の紛争発生率が核取得前を上回っている。ただし、USSRについては冷戦がスタートしようとしている時期の4年間しか核をもたない期間のサンプルがないことに注意しなければならない。

ただ、核兵器を得ることで、自国がより攻撃的になるのではなく、相手国が自国に対してより紛争を始めやすくなるという可能性はあるかもしれない。したがって我々の注意を問題となる国によって始められた紛争に限るべきかもしれない。次のグラフはこれを示している(Maozのデータの”primary initiator”という分類を使用している)。
前のものよりも少し目立たないかもしれないが、同じ傾向がみられる。依然としてUSSRと南アフリカ以外の国々は核を得た後では紛争を始める率が低下しているのが見られる。
もし統計モデルを使い、GDP(軍事能力に関する代理変数)や時間における経年変化といった他の要素をコントロールすると何が分かるだろう?私はパネルデータによるアプローチを使ってこれらのうちいくつかをおこなった。 平均的にいって国家が核兵器を得ると、年間の紛争関与率が1.5回減ることがp=0.1(訳者注:10%)水準で統計的に有意にいえることが分かった。様々な理由で、私自身はこの分析にはあまり重きをおかないが、この分析は軍事力と時間のトレンドを除去しても、上でみられるパターンは消え去らず、実際のところより強まるかもしれないことを示している。

明らかなことだが、核のテストの後、核保有国クラブの他のメンバーが外交面においてより攻撃的にはならなかったという事実はイランもより攻撃的になることはない、ということを意味しているのではない。しかしながら、Kroenigなどの先制攻撃の支持者やTimes(New York Times)の記事でレポートされるようにEhud Barakのようにそれについて真剣に考える政治家が示す先制攻撃の論拠があまりに弱いことは驚くべきことだと思う。Barakは、イスラエルがロケットその他の攻撃に反応してヒズボラやハマスを攻撃した場合に、イランが核による脅しを仕掛ける可能性があることを懸念している、と述べている。これは現実的な危険ではない。

もし、イランが近隣諸国との間で長年にわたる根の深い領土問題を抱えているのならば、私はイランが侵略をする誘因が高まることを恐れるかもしれない(もしサダムが1990年に核兵器を持っていたら、彼をクウェートから立ち退かせることははるかに難しいか、もしくは不可能だっただろう)。しかし、私はイランがその種の問題を抱えているとは思わないし、いずれにせよそれはイスラエルの主要な懸念ではないだろう。
スンニ派が優位を占めるイランの近隣諸国は、核武装をしたイランが、自国内のシーア派の不満を煽り立てるのにより有利な位置にたつことを懸念している。しかしイランの核武装に反応してサウジやほかの国が武器を求めることへの懸念はイランのリーダー(それが誰であれ)にのしかかっているように思える。実際のところこれは核武装化を選択せずにとどまるという選択に彼らを向けさせるかもしれない。加えてもし彼らが核武装をするにせよ、核による均衡が伴うリスクはこの地域において、イランに対してより現状維持型の外交を選択させるように働くだろう。これが核武装後にいくつかの国においておこったことだ。

はっきりさせておくが、私はイランのレジームが核兵器を持たないことを強く望む。主たる理由として、この地域におけるより一層の核の拡散、核武装に付随して起こる予防のための先制攻撃のリスク、兵器のコントロールの喪失などが挙げられる。しかしながら、イランへの攻撃は(現イランのレジームに)核の取得をさらに追求させることになること、イスラエルへの将来の攻撃への認可状になること、現イランのレジームと(当該レジームのとる)核武装による防衛政策への民衆のサポートを急激に増加させることを保証することになる可能性が高い。(NYTの記事によるとネタニヤフは実際のところ攻撃は「イランの民衆に歓迎される」と信じていると報道されている。もしこれが彼の本心からの見方であり、純粋に戦略的な発言でないとするならば、この件に関する歴史的な記録は幻滅させるものだろう。)秤のもう一方はイランが核兵器を持ったさいに行うひどいことについての、より曖昧で、根拠に乏しく、まったく洗練されない議論と主張がある。我々は以前にもスターリンのUSSRや毛の中国や金正日の北朝鮮をめぐりこれと同じ議論を聞いてきた。どちらかが死ぬまで争いあうインドとパキスタンについても。これらのケースはすべてとても怖いものだったし、イラン核武装という見込みがイスラエルにとって信じがたいほど恐ろしいことは理解できる。しかしながら、今までのところこれら過去のケースのどれもそれらの恐怖を超えた極度の恐慌を正当化させるものではないように見える。

2012年1月30日月曜日

パスポート:世界 ビザ無しトラベル

以下、ビザ無しで行ける国数ランキング(2011年8時点, Henley & Partners)。
デンマーク、スウェーデンが1位(173国)。ドイツが2位(172国)、英国、オランダ、ルクセンブルグ、フランス、ベルギー、イタリアが3位(171国)、日本はスペイン、ノルウェー、ポルトガルと並んで4位(170国)。アメリカは5位。ロシアは49位。イランは94位。アフガニスタンが110位。

そういえば以前エジプト人の友人が「俺たちヨーロッパで旅行するにもビザがいるけど、リビアにはビザなしでいけるぜ。嬉しくないけど。」といってた気がする。

2012年1月26日木曜日

もはやアメリカが自由の国ではない10の理由

以下はWashington Postに載ったJonathan Turleyの論絶(2012年1月15日"10 reasons the US is no longer the land of the free")の訳。Turleyはアメリカのリベラル派の法学者。
9/11に続く「テロとの戦い」でアメリカが失ったものを挙げるとき、経済問題を除くとすると、アメリカの多くのジャーナリストや法学者は「9/11以降、国家は一貫して法律で守られるべき国民の自由の領域を縮小している」ことを指摘する。
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いくつか挙げると、自国の市民を裁判手続きなしで殺害したり(アウラキのケース)、裁判を経ることなく容疑者を無制限に留置したり、テロの容疑者とみなされたものを拷問にかけたり、市民を盗聴したり、その他諸々。この記事はそれらをまとめて概観したもの。
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この問題を深く掘り下げた本としてJane MayerのThe Dark Side(New York Timesの年間の10冊に選ばれるなど大変評判を呼んだ)がある。そしてこのような懸念はリベラル派のみが抱くものではなく、政治的にはアメリカの共和党を支持するThe Economistのような雑誌も同様の懸念を表明している
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また多くのリベラル派は、オバマ大統領は前任のブッシュ前大統領が9/11後に推し進めた規制を撤廃するどころか、むしろそれを更に推し進めている、と指摘する(例えばここ)。
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アメリカ建国にまつわるナラティブは「政府の迫害を逃れて自由を求めた者たちが約束の地で新しい国家を創立した」というもので、現実は先住民の虐殺に見られるようにそのように綺麗なものではなかったにせよ、このナラティブはいまだに多くのアメリカ人の心をつかんでいる。しかし、以下の記事のようにアメリカ建国のナラティブの核心をなし、それを守るために自国がつくられた「自由」を亡くすとき、アメリカが何を拠り所にするのか、という声も挙がっている。
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もはやアメリカが自由の国ではない10の理由 (10 reasons the US is no longer the land of the free)
by Jonathan Turley Washington Post
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毎年国務省は他国における個人の権利に関するレポートを発表しており、世界における(個人の自由に対しての)抑圧的な法律や規制の進捗をモニターしている。例えばイランは公平な公開の裁判を拒否していることについて、ロシアはデュープロセスを弱体化させる手段をとっていることについて批判されている。その他の国々は非公開の証拠と拷問を使用していることについて非難されている。
自由がないと考える国々のことは批判するけれども、アメリカ人は自由な国家のいかなる定義においても自国は含まれていなければならない、と自信をもっている。けれど、その自由な国における法律とその運用は彼らの自信を揺るがせてしかるべきだ。2001年9月11日からの10年間、この国は国家の安全を広げるという名の下、市民の自由を包括的に縮小させてきた。その最も直近の例は12月31日に成立したNational Defense Authorization Actで、その法律は市民の無制限の拘留を可能にするものだ。我が国における個人の権利の縮小がどこまで進めば、我々は自分自身の定義の仕方を変えるのだろう?
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ワシントンが得てきた国家安全保障上の種々の権力はそれらが制定されるさいに議論を呼んできたけれども、個別に議論されがちである。しかしながら、それらの権力は孤立して機能するわけではない。それらは権力のモザイクを形成し、そのモザイクのもとで我が国は、少なくとも部分的には、独裁主義的国家(訳者注: Authoritarianは権威主義とも独裁主義とも言う)と考えうるかもしれない。しばしばアメリカ人はキューバや中国を自由のない国とカテゴライズし片づける一方、自身の国を世界における自由の象徴として褒め称える。しかし、客観的に見ると、我々は半分しか正しくないのかもしれない。それらの国々はたしかに、デュープロセスのような個人の権利を欠いており、あらゆる"自由"の妥当な定義の枠外に自国を置いている。しかし現在のアメリカは、誰も認めたがらないかもしれないほど、それらの国々によく似ているのだ。
それらの国々も自由と権利を保証することを目的とする憲法を持っている。しかしそれらの国の政府は、そのような権利を否定し、かつそれに対して市民が異議申し立てをする道を閉ざすことのできる広範な裁量を有する。そしてこれこそまさに、この国で制定された新しい法律群がもつ問題なのだ。
9/11以降で、米国政府が得てきた権力のリストは、我々が思う以上に我々を厄介な同胞の一員の側に置くものなのだ。
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アメリカ市民の暗殺
オバマ大統領は、彼の前にブッシュ大統領がしたように、テロリストもしくはテロリズムを幇助していると考えられるいかなる市民に対してもその殺害を要求できる権利を主張してきた。去年彼はこの(大統領が)備え持つ権限と称する権利の下、アメリカ市民であるアンワル・アル・アウラキともう1人の市民の殺害を承認した。先月、政府の高官はこの権力について再確認し、大統領はテロリストを幇助していると自身が考えるあらゆる市民に対し、暗殺を指示することができると述べた。
(ナイジェリア、イラン、シリアといった国々は国家の敵を法律の枠外で殺害することについて繰り返し批判されてきた。)
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無期限の拘留
先月制定した法律のもとでは、テロの容疑者は軍によって拘束されるものとなっている。くわえて大統領もテロリズムと関係があるとされた市民を無期限に拘留する権力を得ている。カール・レヴィン上院議員がその法案は「それがいかなる法律であれ」既存の法律を踏まえなければならないと主張したが、上院は明確に市民を除外しようとした修正を拒否した。そして政府はそのような権力に対し連邦裁判所の場で意義を申し立てようとうする試みに反対している。政府は自身の完全なる裁量によって市民から法的な保護を奪う権利をもつことを引き続き主張している。
(中国は最近、自国の市民に対し、より限定された拘留を可能にする法律を制定した。またカンボジアのような国はアメリカから"長期間にわたる拘留(prolonged detention)"を指摘されている。)
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恣意的な司法
今では大統領は市民が連邦裁判のもとでの公判を受けるのか、軍事法廷のもとでの裁判を受けるのかを選択することができる。これはまさに世界中で基本的なデュープロセスの保護の欠如として嘲笑されてきたシステムだ。ブッシュが2001年にこの権力を主張し、オバマはこの習慣を続けている。
(エジプトと中国は市民を含む選ばれた被告人に対し、軍事裁判のシステムを適用しているとして非難されてきた。)
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令状なしの捜査
今では大統領は令状なしに監視をおこなうかもしれない。その監視には市民の財政状況や通信記録や交友記録に関する情報を会社や組織に要求し、引き渡させるといったことが含まれる。2001年にブッシュは愛国法(Patriot Act)のもとでこの広範囲に渡る権力を手にし、2011年にオバマはビジネス文書や図書館の閲覧記録といったすべての捜査を含むよう、この権力を拡張した。政府は"National security letter"を使うことで、相応の理由なしに、組織に対して市民の情報を引き渡すように要求でき、その上関係当時者にそのような要求を明かさないように命令することができる。
(サウジアラビアとパキスタンは、政府が広範囲で裁量にもとづく監視を行うことを可能にする法律のもとで運営されている。)
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秘密証拠
政府は今では定期的に市民を拘留するに際し、非公開の証拠(訳注:secret evidence)を用い、連邦裁判と軍事裁判の場で非公開の証拠を採用している。政府はまた、アメリカ政府に対してなされる訴訟に関し、政府がもつ国家の安全を損なう可能性がある機密文書(訳者注:classified information)が明らかにされる可能性がある、と宣言することで、そのような訴訟を却下することができる。政府によるこの申し立てはプライバシーに関する訴訟に対してなされ、そのほとんどの申し立ては連邦判事に疑いなく受け入れられている。法律意見書(訳者注:legal opinion)でさえ、ブッシュ・オバマ政権のもとで政府の行動の基礎となったものとされ、機密文書に分類されている。これにより、政府は、政府による非公開の証拠を用いた非公開の訴訟を支持するための非公開の法的主張をすることができる。加えて、いくつかの訴訟はそもそも、決して法廷の場で争われない。連邦裁判所は日常的に、政策やプログラムに対する憲法上の異議を、訴訟をすることの当事者適格のもとで撥ね付ける(訳者注:"under a narrow definition of standing to bring a case"がよくわからなかったため、ここは意味がとおるように訳せていない)。d
戦争犯罪
世界はブッシュ政権の下、テロリズムの容疑者に対して水責めによる拷問を行った者に対し告訴を強く要求したが、2009年にオバマ政権は、CIAで働くものが水責めの類の拷問を行ったとして調査されたり、告訴されたりするようなことはさせないと述べた。これは条約義務だけではなく、国際法上のニュルンベルグ原則を骨抜きにするものだった。スペイン等の裁判所がブッシュ政権の高官を戦争犯罪人として調査しようと動き出したとき、報道によれば、オバマ政権は外国高官に対しそのような訴訟が進行するのを防ぐように要求した。アメリカは長年に渡り、他国において戦争犯罪人とされてきたものに対し同様の措置を要求してきたという事実があるのだが。
(多くの国家が戦争犯罪や拷問をおこなったとして非難される高官に対する調査に対して抵抗してきた。セルビアやチリのような国は最終的には国際法に従う方向で屈服した。独立した調査を拒否している国にはイラン、シリア、中国などが含まれる。)
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秘密裁判
政府は非公開の外国インテリジェンス監視法廷(Foreign Intelligence Surveillance Court)の利用を拡大してきた。その法廷は(アメリカに)敵対的な他国の政府や機関に協力したり、幇助したりしたとされる個人の拘束が可能になるよう、自己の権限を拡大させてきた。2011年にオバマはこれらの権力を更新した。この更新には識別可能なテロリストグループに属さない個人に関する秘密捜査を可能にすることが含まれた。政府はそのような監視に関する憲法上の上限を無視する権利を言い立てている。
(パキスタンは国家の安全を守るための監視をチェックをうけない軍部や諜報機関に委ねている。)
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法律的な審理からの免責
ブッシュ政権のように、オバマ政権は令状なしの状態で市民を監視する手助けをした会社への免責を押し通し、市民がプライバシーの侵害に異を唱えることを妨害してきた。
(同様に中国は国内と国外の両方からの異議に対し広範囲な免責を主張しており、民間の会社に対する訴訟を日常的に妨害している)
市民の継続的な監視
オバマ政権はいかなる法律的な命令や審理もなしに、GPS機器を使用し対象とする市民の一挙一動をモニターすることができる、という自身の主張を押し通してきた。(サウジアラビアは大規模な公的な監視システムを導入しており、キューバは選出した市民に対しての積極的なモニタリングで悪名高い。)
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囚人特例による囚人の(第三国への)引き渡し
政府は現在では囚人特例引き渡し(extraordinary renditions)というシステムのもとで、市民、非市民の両方を第三国に移送する能力を得ている。この制度はシリアやサウジアラビアやエジプトやパキスタンといった他国を容疑者の拷問を行うために使用するもの、として非難されている。オバマ政権はブッシュ政権のもとで行われたこの習慣の乱用を続けてはいない、と述べているが、アメリカ市民の移送の可能性も含んだ、囚人の引き渡しを指示することについて拘束のない権利を持つことは主張している。


これらの法律は、州および連邦レベルにおけるセキュリティーシステムの拡張のために使われる資金の流入と同期している。これらの資金はより多くの公的な監視カメラ、多数の保安要員、テロリズムを追跡する官僚機構の大規模な拡大を含む使途で使われている。
ある政治家は、こうした権力の拡大は単に我々が生きている時代に反応しているにすぎないといい、肩をすくめる。それ故、リンゼーグラハム上院議員は昨春のインタビューで、異議をうけずに「言論の自由(free speech)は素晴らしいアイデアだが、我々は戦争をしているのだ。」と宣言することができた。勿論テロリズムが"降伏"することはないだろうし、この特定の"戦争"を終えることもないだろう。
他の政治家は、確かにその種の権力は存在するかもしれないが、問題はそれがいかに使われるかだ、と正当化する。これはブッシュを批判したようにはオバマを批判することができないリベラル派に共通してみられる反応だ。例えば、カール・レヴィン上院議員は議会は無期限の拘束についてのいかなる決定をしているわけではない、と主張している。「これは我々が本来の決定者である大統領府に任せるべき判断だ。」
そして、Defense Authorization法案の調印時における声明のなかで、オバマは得られた権力を使い市民を無期限に拘置することは意図していない、と述べた。しかしながら、依然として彼は、本心ではない独裁者(regretful autocrat)としてそのような権力を受け入れている。
独裁主義的な国家というのは、独裁的な権力の使い途によって定義されるのではなく、それらの権力の使用が可能になる能力によって定義される。もし大統領が彼の権能であなたの自由や人生を奪うことができるとすると、すべての権利は最高権力者の意思に左右される裁量的な施しにすぎなくなる。
合衆国憲法の起草者達は独裁的なルールの下で生き、この危険について我々よりもよく知っていた。よく知られているようにジェームズ・マディソンは、我々には支配者の善意や善良な動機に依存しないシステムが必要であると警鐘を鳴らした。「人間が天使ならば、政府はいらない。」
ベンジャミン・フランクリンはもっと率直だった。1787年にパウエル夫人は憲法の調印を済ませたフランクリンに直面し、尋ねた。「あの、先生、私たちは何を得たのでしょうか?共和国でしょうか君主国でしょうか?」彼の反応は若干冷ややかなものだった。「共和制です。マダム。あなたがそれを保つことができればですが。」
9/11以来、我々は起草者達がまさに恐れたような政府をつくりだしてきた。広範でほとんど抑制されず、賢明に使われるであろうという希望に依存している権力を備えた政府だ。
Defense Authorization法案の無期限拘束に関する条項は、多くの市民的なリバータリアンにとってオバマによる裏切りのように映る。大統領は法案のその条項に対し拒否権を発動すると約束しているが、法案の発起者であるレヴィンは上院の廊下で、市民に対する無期限の拘束を除外するいかなる規定をも削除することに賛成したのは、実際のところ、ホワイトハウスであると明らかにした。d
アメリカ国民にとって政治家の不誠実はちっとも珍しいことではない。真に問題にすべきは、自国を自由の国というとき、我々は我々自身に対し嘘をついているのではないかということである。
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*ジョナサン・ターリーはジョージワシントン大学の法学教授
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2012年1月23日月曜日

金正日の下での北朝鮮の政策決定

死去した金正日体制のもとでの北朝鮮の政策決定プロセスについては2つの見方があった。

1つ目は金正日が強大な権限をバックにすべての政策決定を執行するトップ・ダウンに基づくシステムという見方。
北朝鮮の政策決定プロセスはなかなか見えづらいため、外部者が北朝鮮を評価する場合、手に入り見えやすい情報に頼っての解釈になる。金正日の動向・言動等はもっとも得られやすい類のものであったため政策決定プロセスの説明も彼個人の属人的な要素に帰せられがちである。

もう1つの見方として、リーダーとリーダーの下で働く複数のアクターとの相互作用に注目して政策決定プロセスを分析する議論も金正日以前から存在した。この見方においてもリーダーは強力な権限を有するものの、国の政策が決定される際にはリーダーの下で働く複数の機関も独自の論理・目的で行動し、政策に影響を及ぼす。
従ってこの見方によると、北朝鮮を外部から観察する場合はリーダーの発言だけではなくほかのアクターの要素を考える必要がある。

以下のPatrick McEachenのInside The Red Box-North Korea's Post-Totalitarian Politics, 2010は後者の見方をとっている。
金日成に比べた場合、金正日のリーダーシップはより限定されたものであった、とMcEachenは述べる1994年の権力承継以降自身のカリスマ性の弱さを補うため、金正日は党、軍、内閣という3つの機関を相互に争わせることで自身の権力基盤を維持してきた。北朝鮮の国としての政策もこの3者と金正日の相互作用により形成されてきた。McEachenによると1990年代後半/2000年代の北朝鮮にみられる、外交交渉の場での融和スタンスから対決スタンスへの突然の急変等は、金正日個人の移り気な気質によるものではなく、権力を争うプレーヤー間の相互作用によって発生した可能性が高い。McEachenは金正日の統治システムを"Post-Totalitarian(ポスト全体主義)"システムと呼んでいる。

この見方を現状に当てはめると、カリスマ性において金正日に劣る息子(金正恩)への権力継承により北朝鮮内のパワーはより細分化されたことになる。現状は権力の移行後に現れる体制で各アクターがどのような影響を握るのかについてはまだよくわからない、といった段階だろうか。

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以下少し古いがLos Angels TimesのWebに載ったBarbara Demickの12月19日付の記事からの移行期の北朝鮮についての記述。この記事でDemickは金正恩の叔父(金正日の義兄弟)にあたる張成沢(Jang Song-Thaek)の影響が強まるという観測とともに、金正恩の権力基盤の弱さを指摘している。Demickは北朝鮮の脱北者を扱ったNothing to Envy(日本語版「密閉国家に生きる-私たちが愛して憎んだ北朝鮮」)の著者であり、現在は中国をカバーするジャーナリストである。
Current and former U.S. officials are divided on what to expect from the relationship between Jang and the new leader. Chuck Downs, a former Pentagon and State Department official, said the younger Kim was likely to be a figurehead with Jang running the show.
Downs said he has concluded from years of watching North Korea that Kim Jong Un is not nearly tough enough for the job.
"You don't go from a guy who tries to be friends with everyone at his Swiss boarding school, who befriends enemies of North Korea and puts a poster of Kobe Bryant in his room, to being the kind of ruthless person who rules North Korea," he said.
Current U.S. intelligence officials concur that Jang is likely to play an important role, but regard him as too cautious to try to seize power for himself. And the U.S. government assessment is that Kim Jong Un is indeed ruthless enough to rule.
Regardless, North Korean officials are likely to emphasize order while the succession unfolds. The military appears to be taking a more prominent role. The announcement Monday of Kim's death was signed by entities from the party, military and people's assembly.
"A lot depends on whether the power centers of the regime coalesce around Kim Jong Un, or see this period of uncertainty as an opportunity to change the balance of power internally," a U.S. official said. "Those are very tricky calculations to make in an authoritarian society like North Korea."
元そして現役のアメリカの高官の間では張成沢と新しい指導者の関係から何が予想されるかについては意見が分かれている。元ペンタゴン及び国務省職員のChuck Downsは金正恩はおかざりで、張が事態を取り仕切ることになりそうだという。
Downsは北朝鮮を長年見てきた経験から、金正恩は北朝鮮のリーダーとしての仕事に耐えうるほどタフではないと結論した、という。
「スイスの寄宿学校で誰とでも仲良くしようと努め、北朝鮮の敵国出身の生徒と友達になったり、コービー・ブライアントのポスターを自室に貼ったりする人間から北朝鮮を支配する冷酷な類の人間になったりすることはできない。」 と彼は述べる。
アメリカのインテリジェンス(諜報)部門の職員は、張氏がより重要な役割を果たすようになりそうだ、という見方には同調するが、張氏は自身で権力を握ろうと試みるには慎重すぎる人物であるとみる。そして米国政府の評価は金正恩は北朝鮮を支配するのに充分なほど冷酷だ、というものだ。
 それにもかかわらず、北朝鮮高官は権力承継がおこなわれる間は秩序に気を配りそうだ。軍部はより大きな役割を果たすようになることが予想される。月曜日の金正日死去の発表は党、軍部、内閣の機関によって署名されていた。
「レジーム内で権力を持つ機関が金正恩を中心にしてまとまるか、それともこの不確実な期間をレジーム内のパワーバランスを変えるチャンスとみるかに多くがかかっている。」とアメリカ高官は語る。「これらの計算を北朝鮮のような独裁主義的な社会において行うのはとても難しい。」

2012年1月20日金曜日

ホッブス: 近代社会科学の開祖?

下にMark ThomaのEconomist View経由で知ったDaniel Littleの2009年3月27日のブログポスト("Hobbs an institionalist?")を適当に訳した。Daniel Littleは哲学博士でミシガンディアボーン大学の総長。

専門家以外でリヴァイアサンを全巻読み通す人はほとんどいないだろうが、昔途中まで読んだとき、理論の内容はともかくとしてその構築の仕方がやけにモダンだと思った記憶がある。

ポストはミクロ的基礎づけに依拠する近代社会科学の方法(近代科学の方法論であり、現代経済学の主流をなす方法論でもある)を社会科学に最初に適用したのがホッブスであったと指摘している。トーマス・シェリングのMicromotives and Macrobehaviorについて少し言及されているが、これは大変面白い本なのでいつか取り上げたい。
Thomas Hobbs (1588-1679)

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Hobbs an institutionalist?/ホッブスは制度主義者?
by Daniel Little 

驚くべきアイデアがある:近代の全政治哲学者の中で、近代科学と論理と世界観を共有するのに最も近づいているのはトーマス・ホッブスである。リヴァイアサン(1651)で彼は、近代の制度主義的/合理選択アプローチによる社会の説明に似通った言葉を使い社会を理解するという問題に着手している。彼のやり方は社会の構成員に関する推論からそれらの構成員によって構成される全体についての結論に進むという流れであり、構成的なアプローチ(訳者注:constructive approach)である。彼は個人がどのように推論し、何が彼らの最も基本的な動機なのかについて扱う、エージェントに関する理論を提出した。個人は合理的且つ利己的であり、他のエージェントがとるであろう行動を予測するという点で戦略的である。その上で彼は、その中で社会的行動が行われる2つの制度設定についての描写を提出した。"威圧する"ような政治制度が存在しない自然状態と個人の行動を規制する法律を課す単一の主権が存在する主権国家である。

彼は最初の制度設定においては主権の不在というコンテクストの下での競争は、永続的な暴力的な競争にいきつくと主張する。彼は二番目の制度設定においては法律システムというコンテクストの下での個人の利益追求は、財産の蓄積と平和的共存に行きつくと主張する。

以下はリバイアサン13章に記載のある個々のエージェントに関するホッブスの前提である。
我々が目的を成し遂げられるという希望の平等さはこの能力の平等さから生じる。そしてもし2人の男が、共には得ることができないにもかかわらず同じものを望むならば、彼らは敵同士になる。そして彼等自身の目的のため(大抵の場合それは彼らの自己保存であり、時々はただ楽しみのための場合もある)、お互い同士を滅ぼしたり、服従させようと試みる。そしてここから次のことが起こる。侵略者が他の人間1人分の力くらいしか有していない状況において、もし彼が好適な場所を耕すか、または種をまくか、または建物を建てるか、もしくは所有しているならば、他の集団が彼の所有物を取り上げ、彼の労働の果実だけでなく命や自由までも奪うために団結してやってくることが予想されるかもしれない。そしてその侵略者もまた誰かがやってくる危険のもとに置かれるのである。

したがって我々は人間の性質の中に、紛争の原因となる3つの原因を見出す。最初は競争である。次は不安さである。三番目は栄光である。最初の原因は人間に利得のために侵略をさせる。二番目は安全のために侵略をさせる。3番目は名誉のために侵略をさせる。最初の原因は人間に、他の人間や、その妻や、その子や、その家畜の主人となるために暴力を使わせる。二番目はそれらを守るために暴力を使わせる。3番目は、彼ら自身もしくは彼らの親族、友達、国家、職業、名前に対する言葉、嘲笑、異なる意見、その他の、蔑みの徴しとなるようなささいなもののために暴力を使わせる。

人間を平和に向かわせる感情は、死への恐怖、便利な暮らしに必要となる物への欲求、自身の精勤によりそれらを得ようとする希望である。そして理性により人間同士が合意するようになる平和に関する好適な条項が示唆される。これらの条項は別名自然法と呼ばれるものであり、私はそれについて次の2章でより詳しく論じる。
そして個人によるこれらの動機や行動様態は、自然状態の中で集まって予想されうる結果に行きつく。万人の万人への闘争である。
従って、万人が万人の敵となる戦争の際に生じるのと同じ結果が、人が自分の力と発明が自身に与える防備以外のものを持たず暮らしている時に生じうる。そのような状態の下では労働からの果実が不確実になるため精勤の余地がない。そして結果として、地球上に、文化や、航海や、海上から輸入された商品の利用や、便利な建物や、大きな力を必要とするそれらの移動に関する指示や、地球の運命に関する知識や、時の計測や、芸術や文字や、社会は存在しなくなる。そして最悪なことに絶え間ない恐れと暴力による死が存在し、人間の生活は孤独で貧乏で忌まわしく野蛮で短命になる。
これは制度主義者の議論である。これはある特定の制度設定のもとで、あるエージェントに予想される振る舞いをモデル化している。そしてその後これらの"ミクロ的基礎"が集計された社会に与える結果を推定している。つまりホッブスは、エージェンシーの行動様式に関する分析とある特定の制度的背景に関する想定を基礎としてミクロからマクロへと至る議論を提出している。

このロジックを現代の合理的選択の理論家であるジェームズ・コールマンのFoundations of Social Theoryの中で提供されている社会に関する説明のロジックと比較してみよう:
社会システムの挙動に関する2つ目の説明は内部からシステムへのプロセスを検証することを必要とする。内部の検証はそれを構成するパーツや全体システム以下の単位を含む。原型的なケースは構成するパーツが社会のメンバーである個人であるケースである。他のケースにおいては、構成パーツはシステム内の諸制度であったり、システムの一部であるサブグループであったりする。すべてのケースにおいて分析はシステムより下のレベルへ降りていき、システムの振る舞いをそのパーツの振る舞いにさかのぼって説明するものとみなせる。この説明様式は量的あるいは質的のどちらか一方であるとは限らず、双方を含む場合もあるかもしれない。
したがって、ホッブスの議論の論理はとても明瞭である。そして制度的-合理選択の理論家のそれととても似通っている。トーマス・シェリングの本のタイトルMicromotives and Macrobehaviorはこのアイデアを3語で捉えている。すなわち個人レベルでの動機と行為に関する推定から、マクロレベルでの社会的な配置や振る舞いの描写を導出するということだ。

自然状態において何が可能であるかについてホッブスが置いた特定の想定に関して異議を唱えても、それはホッブスの哲学的分析に対する深い批判にはならない。そして実際のところ、現代のポリティカルサイエンティストの多くが、ホッブスが自然状態と呼んだ文脈の中において男と女がノン・ポリティカルな制度をつくることが可能だと主張している。調整と協調(Coordination and cooperation)は"自然状態"のもとでも確かに可能だろう。アナーキーの中からでも協調を達成するのは可能だ。社会学の視点から見ると、実際のところこれは友好的な修正である。それは単にある種の協調の実現可能性に関し、追加の前提を付け加えているのだ。だから"アナーキー状態でも協調はありうる"といったホッブスへの批判は、集権的で抑圧的な権力に依存しない存続可能な社会的制度の実現可能性に関しての実質的な議論として理解される。そしてそれは、ローカルグループに属する人々が、ただ乗りや侵略的な行動を克服する自主的な規制の形をとった協調を確立するための状態やメカニズムに関する特定の想定に依存している。ホッブスはこの議論によっては説得されなかったであろうと考えるに充分な論拠がある。しかし結局のところそれは実証的な問題である。

この見地から見た場合、自然状態に関するホッブスの結論に対してなされたいくつかの議論はとても価値がある。第一にマイケル・テイラーがCommunity, Anarchy and Libertyの中で行った議論はとても説得力がある。元来、農民のコミュニティーは、安定化のために法の力を用いなくても持続する協調的な制度や関係をつくりだし、維持するための方法を見出してきた。法律システムを裏付けとする"契約"は、個々のエージェントの間で調整と協調を確立するための唯一の方法であるわけではない。ロバート・ネッティング(Robert Netting)はSmallholders, Householders: Farm Families and the Ecology of Intensive, Sustainable Agricultureの中で、伝統的な労働シェアと季節における協調のなかから関連する例を提出している。そしてエリノア・オストロム(訳者注:2009年ノーベル経済学賞受賞)と彼女の同僚は彼女たちの"共有財産レジーム[common property resource regimes]"に関する歴史的そして社会的な研究のなかで同様の議論を行っている。それは基本的に、中央政府の法制ではなく地域による自発的な施行により維持されている安定的な協調パターンについての研究である(Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action)。オストロムは中央政府による調整と協調に対する支援がなくても、伝統的なコミュニティーが漁業や林業や水資源やその他の共有財産を管理してきた重要な歴史的事例を多数報告している。

しかしながらこれらは、ホッブスが17世紀半ばに行った仕事によって先鞭がつけられた、社会を説明するための根本的に一貫したモデルに対する実証的且つ理論的な改良である。そのモデルとは個々のアクターのレベルでのメカニズムと行為の結果から集計的な(マクロの)社会的な結果を説明するモデルである。
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