“僕はタイガー・ウッズを観るのと同じ理由で、マイケル・ルイスを読む。彼のようには決して書けないだろう。だけど 、ときどき、天才がどんなものなのか思い出すのはよいことだ。” (マルコム・グラッドウェル)
Coachはマネーボール、ライアーズ・ポーカー、フラッシュ・ボーイズ等、ベストセラーを連発している米国の人気作家マイケル・ルイスが2005年に発表したノンフィクションであり、ルイスの少年時代の野球のコーチについての作品(ここでは英語版から文章を抜書きしたが和訳あり)。
物語は少年時代の野球コーチ:フィッツについての思い出を作家となったルイスが回想するプロットと、現在のフィッツへの批判についてルイスが関係者にインタビューするプロットが並存する構成。
100頁に満たない作品だが、名ストーリーテラー、ルイスの腕前が発揮された佳作。読むと自身の人生の「コーチ」を思い出すかも。「親」が果たす役割の世代論(今昔)も折り込まれており、読んだ後、誰かに色々思ったことを語りたくなるかもしれない。
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物語はルイスが自身の母校(ニューオーリンズの学校(Isidore Newman School))についての新聞記事を見たところから始まる。
Newman Schoolは裕福な地元の子供が通う学校だが、近年、同校の野球チームのコーチであるフィッツに対して、生徒の親から批判が寄せられている。親達はフィッツの指導の厳しさに抗議し、自分達の子供にもっとプレーをさせろと主張している。
Newman Schoolは裕福な地元の子供が通う学校だが、近年、同校の野球チームのコーチであるフィッツに対して、生徒の親から批判が寄せられている。親達はフィッツの指導の厳しさに抗議し、自分達の子供にもっとプレーをさせろと主張している。
フィッツはルイスがNewmanの7年生(14歳)のときに移ってきて、ルイスの高校時代の野球チームのコーチとなった。
フィッツは短気で勝利に執着するコーチだった。練習は過酷、怠慢は決して許さない。少年達は毎日倒れて動けなくなるまでスプリントを行い、試合に負ければフィッツのお説教を聞き、真っ暗闇の中、ヘッドスライディングの練習を行う(全身血まみれになる)。
「試合に勝つまで」、フィッツは練習で汚れ、おまけに血がこびり付いたユニホームを洗わせてくれない。
血と泥まみれのユニホームを着て少年達は試合に臨む。
「試合に勝つまで」、フィッツは練習で汚れ、おまけに血がこびり付いたユニホームを洗わせてくれない。
血と泥まみれのユニホームを着て少年達は試合に臨む。
Opposing teams, at first amused, became alarmed, and then, I thought, just a tiny bit scared. You could see it in their eyes, the universal fear of the lunatic. Heh, heh, heh, those eyes said, nervously, this is just a game, right?
対戦相手は、最初は面白がって、次に心配になり、そしてそれから少し怖くなったと思う。彼等の目には誰もが持つ狂人に対する恐れが浮かんでいた。おい、おい、おい、彼等の目は心配そうに語っていた、これは単なる野球の試合だぜ?そうだろう?練習の中、いつしか弱小チームにこんな確信が芽生える。
those other guys might be better than us, but there is no chance they could endure Coach Fitz
他のチームの奴らは僕達より上手いかもしれない。だけど奴らがフィッツの指導に耐え切れるはずはない。そして、チームはついに勝利する!
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ルイスはフィッツの指導について以下のように回想する。
We listened to the man because he had something to tell us, and us alone. Not how to play baseball, though he did that better than anyone. Not how to win, though winning was wonderful. Not even how to sacrifice. He was teaching us something far more important: how to cope with the two greatest enemies of a well-lived life, fear and failure. To make lesson stick, he made sure we encountered enough of both.
僕たちはコーチの言うことを聞いていた。何故なら彼には僕達に、そう僕達に対してだけ伝えたい何かを持っていたから。それは野球のやり方ではなく(もっとも彼は野球のやり方を誰よりも上手く教えたけれど)、どのように勝つかでく(勝つことは素晴らしかったけど)、チームへの献身ですらなかった。彼はそれよりもずっと重要なことを僕等に教えようとしていた。良き人生のもっとも大きな障害である恐怖と失敗にどう立ち向かうかを。教訓が僕等のなかに留まるよう、彼は僕達にその両方を充分に体験させた。
What he know-and I 'm not sure he'd ever consciously thought of it, but he knew it all the same-was that we'd never conquer the weaknesses within ourselves. We'd never win. The only glory to be had would be in the quality of the struggle .
彼は僕達は自身の内にある弱さに勝利することはできないことを知っていた-彼自身がそれを明確に意識していたかどうかは分からないけど、それでも彼はそのことを知っていた。僕達は決して勝つことはできないだろう。僕等が勝ち取り得る唯一の栄光は、僕等が自身の弱さに立ち向かう過程にあるはずなんだ。
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作品中では、ルイスが自身の少年時代を回想するのと並行して、次第に「子供を守るために」練習に口出しするようになった親達への対応に苦慮する現在のフィッツも語られる。
それでも、フィッツの練習を見学し、昔と変わらずチームを鼓舞する姿を見た後、ルイスは思う。
And that's how I left him. Largely unchanged. No longer, sadly, my baseball coach. Instead, the kind of person who might one day coach my children. And when I think of that, I become aware of a new fear: that my children might never meet up with their Fitz. Or that they will, and their father will fail to understand what he's up to.
それから僕は彼と別れた。フィッツはほとんど変わっていなかった。悲しいことに、もう彼は僕の野球コーチではないけれど。その代わり、彼はいつか僕の子供達のコーチになるかもしれない。そして、そのことを考えるといつも僕は怖くなる。もしかしたら、僕の子供達は「彼等のフィッツ」に決してめぐり会わないかもしれない。もし会ったとしても、彼等は、そして彼等の親達は、彼がどれだけの人物なのか理解し損ねるかもしれない。
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