2012年1月31日火曜日

核を持った国の振る舞いは変化するのか?

イスラエル人ジャーナリストのRonen Bergmanが1月25日付のNew York Timesに、イスラエルのイラン攻撃について論じた論説を掲載し、この記事は大きな評判を呼んでいる。Bergmanは最終段落で以下のように述べている。
After speaking with many senior Israeli leaders and chiefs of the military and the intelligence, I have come to believe that Israel will indeed strike Iran in 2012. 
多くのイスラエルの指導者、軍部及びインテリジェンスの長官と話した後、私は2012年にイスラエルがイランを確かに攻撃すると確信するようになった。
Source: Gardian
実際にイランの核開発を巡りイスラエル-イラン間に緊張が高まっているのは確かなようで、日本の新聞も記事を掲載している(一例)。

今回翻訳した以下の記事はアメリカのポリティカルアナリストたちが運営するブログThe Monkey Cageに載ったポスト(How do states act after they get nuclear weapons?)。

著者は「そもそも核兵器を持つと国は攻撃的になるのか?」という問題提起をしている。途中の分析は少し弱いようで(有意水準がp=10%だし、サンプルも少なさそうだし)、分析自体の説得力はいまいちだが、問題提起自体は研究する価値があるように思う。なおJames Fearonはスタンフォード大学の政治学教授である。

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核兵器を得た後、国家はどのように振る舞うか?/How do states act after they get nuclear weapons?
by James Fearon, January 29 2012
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イランに対するアメリカと/またはイスラエルによる先制攻撃を扱うこれらすべての記事を読んで、私は核兵器を得た後の国家が紛争時にとる行動の歴史的な履歴について知りたくなった。国家が深刻な国際紛争に関与する率は上がるのだろうか?それとも下がるのだろうか?または核を持ったとしても変わらないのだろうか?
Matthew Kroenigのようなイランへの先制戦争の支持者は核を得た場合、イランは今よりはるかに攻撃的になると予想している。反対にKen Waltzのような核拡散に対する楽観者は我々は度々、核武装した敵によってひどいことが引き起こされると予想してきたけれども、我々はどちらかといえば繰り返し、その反対が正しかったことを見てきた、と主張している。たとえばソビエトとアメリカは特段の証拠なしに、(中国の)毛が核兵器を持った場合、彼はより攻撃的で、危険で、ファナティックになると考え、それを防ぐため(毛への)先制攻撃について熟考した。しかし核兵器取得後、間違いなくより現状維持に重点を置いた中国外交(a more status quo oriented Chinese foreign policy)が続いた。

特に最近の5年間において、国際関係論の専門家の多くが利用できる数量データを使い、核兵器と国際紛争の間に見られるパターンについて探り始めた(Erik GartzkeDong-Joon JoRobert Rauchhaus、そしてMichael Horowitzの研究を見てほしい)。種々の興味深い発見が見られたが、それらの発見を見回しても私が見たかったことは見つけられなかった。私が見たかったのは、単純な国レベルにおける核の取得前と後での紛争への関与率に関する調査だった。
よって、私のほうでZeev Maozバージョンの国家間における軍事関連紛争のデータを使って、それらをまとめてみた。以下のグラフは、1945年から2001年までに核兵器を取得した9つの国のそれぞれについて、核を持っていなかった期間における年間での軍事関連紛争の発生率と持った後のそれとを示している。アメリカが核をもったのが1945年なので、アメリカについては核を持つ前の軍事関連の紛争データは存在しないこと。ロシア/USSRの核取得以前の軍事関連の紛争発生率はわずか1945-1948年の間のものであること。南アフリカは1982-90年のものであること、紛争関連のデータは2001までしかないこと、に注意してほしい。
中国、フランス、インド、イスラエル、パキスタン、イギリスはすべて、核取得後の期間において軍事関連紛争の発生率が低下している。多くの国で大きな低下が得られる。USSR/ロシアと南アフリカについては核取得後の紛争発生率が核取得前を上回っている。ただし、USSRについては冷戦がスタートしようとしている時期の4年間しか核をもたない期間のサンプルがないことに注意しなければならない。

ただ、核兵器を得ることで、自国がより攻撃的になるのではなく、相手国が自国に対してより紛争を始めやすくなるという可能性はあるかもしれない。したがって我々の注意を問題となる国によって始められた紛争に限るべきかもしれない。次のグラフはこれを示している(Maozのデータの”primary initiator”という分類を使用している)。
前のものよりも少し目立たないかもしれないが、同じ傾向がみられる。依然としてUSSRと南アフリカ以外の国々は核を得た後では紛争を始める率が低下しているのが見られる。
もし統計モデルを使い、GDP(軍事能力に関する代理変数)や時間における経年変化といった他の要素をコントロールすると何が分かるだろう?私はパネルデータによるアプローチを使ってこれらのうちいくつかをおこなった。 平均的にいって国家が核兵器を得ると、年間の紛争関与率が1.5回減ることがp=0.1(訳者注:10%)水準で統計的に有意にいえることが分かった。様々な理由で、私自身はこの分析にはあまり重きをおかないが、この分析は軍事力と時間のトレンドを除去しても、上でみられるパターンは消え去らず、実際のところより強まるかもしれないことを示している。

明らかなことだが、核のテストの後、核保有国クラブの他のメンバーが外交面においてより攻撃的にはならなかったという事実はイランもより攻撃的になることはない、ということを意味しているのではない。しかしながら、Kroenigなどの先制攻撃の支持者やTimes(New York Times)の記事でレポートされるようにEhud Barakのようにそれについて真剣に考える政治家が示す先制攻撃の論拠があまりに弱いことは驚くべきことだと思う。Barakは、イスラエルがロケットその他の攻撃に反応してヒズボラやハマスを攻撃した場合に、イランが核による脅しを仕掛ける可能性があることを懸念している、と述べている。これは現実的な危険ではない。

もし、イランが近隣諸国との間で長年にわたる根の深い領土問題を抱えているのならば、私はイランが侵略をする誘因が高まることを恐れるかもしれない(もしサダムが1990年に核兵器を持っていたら、彼をクウェートから立ち退かせることははるかに難しいか、もしくは不可能だっただろう)。しかし、私はイランがその種の問題を抱えているとは思わないし、いずれにせよそれはイスラエルの主要な懸念ではないだろう。
スンニ派が優位を占めるイランの近隣諸国は、核武装をしたイランが、自国内のシーア派の不満を煽り立てるのにより有利な位置にたつことを懸念している。しかしイランの核武装に反応してサウジやほかの国が武器を求めることへの懸念はイランのリーダー(それが誰であれ)にのしかかっているように思える。実際のところこれは核武装化を選択せずにとどまるという選択に彼らを向けさせるかもしれない。加えてもし彼らが核武装をするにせよ、核による均衡が伴うリスクはこの地域において、イランに対してより現状維持型の外交を選択させるように働くだろう。これが核武装後にいくつかの国においておこったことだ。

はっきりさせておくが、私はイランのレジームが核兵器を持たないことを強く望む。主たる理由として、この地域におけるより一層の核の拡散、核武装に付随して起こる予防のための先制攻撃のリスク、兵器のコントロールの喪失などが挙げられる。しかしながら、イランへの攻撃は(現イランのレジームに)核の取得をさらに追求させることになること、イスラエルへの将来の攻撃への認可状になること、現イランのレジームと(当該レジームのとる)核武装による防衛政策への民衆のサポートを急激に増加させることを保証することになる可能性が高い。(NYTの記事によるとネタニヤフは実際のところ攻撃は「イランの民衆に歓迎される」と信じていると報道されている。もしこれが彼の本心からの見方であり、純粋に戦略的な発言でないとするならば、この件に関する歴史的な記録は幻滅させるものだろう。)秤のもう一方はイランが核兵器を持ったさいに行うひどいことについての、より曖昧で、根拠に乏しく、まったく洗練されない議論と主張がある。我々は以前にもスターリンのUSSRや毛の中国や金正日の北朝鮮をめぐりこれと同じ議論を聞いてきた。どちらかが死ぬまで争いあうインドとパキスタンについても。これらのケースはすべてとても怖いものだったし、イラン核武装という見込みがイスラエルにとって信じがたいほど恐ろしいことは理解できる。しかしながら、今までのところこれら過去のケースのどれもそれらの恐怖を超えた極度の恐慌を正当化させるものではないように見える。

2012年1月30日月曜日

パスポート:世界 ビザ無しトラベル

以下、ビザ無しで行ける国数ランキング(2011年8時点, Henley & Partners)。
デンマーク、スウェーデンが1位(173国)。ドイツが2位(172国)、英国、オランダ、ルクセンブルグ、フランス、ベルギー、イタリアが3位(171国)、日本はスペイン、ノルウェー、ポルトガルと並んで4位(170国)。アメリカは5位。ロシアは49位。イランは94位。アフガニスタンが110位。

そういえば以前エジプト人の友人が「俺たちヨーロッパで旅行するにもビザがいるけど、リビアにはビザなしでいけるぜ。嬉しくないけど。」といってた気がする。

2012年1月26日木曜日

もはやアメリカが自由の国ではない10の理由

以下はWashington Postに載ったJonathan Turleyの論絶(2012年1月15日"10 reasons the US is no longer the land of the free")の訳。Turleyはアメリカのリベラル派の法学者。
9/11に続く「テロとの戦い」でアメリカが失ったものを挙げるとき、経済問題を除くとすると、アメリカの多くのジャーナリストや法学者は「9/11以降、国家は一貫して法律で守られるべき国民の自由の領域を縮小している」ことを指摘する。
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いくつか挙げると、自国の市民を裁判手続きなしで殺害したり(アウラキのケース)、裁判を経ることなく容疑者を無制限に留置したり、テロの容疑者とみなされたものを拷問にかけたり、市民を盗聴したり、その他諸々。この記事はそれらをまとめて概観したもの。
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この問題を深く掘り下げた本としてJane MayerのThe Dark Side(New York Timesの年間の10冊に選ばれるなど大変評判を呼んだ)がある。そしてこのような懸念はリベラル派のみが抱くものではなく、政治的にはアメリカの共和党を支持するThe Economistのような雑誌も同様の懸念を表明している
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また多くのリベラル派は、オバマ大統領は前任のブッシュ前大統領が9/11後に推し進めた規制を撤廃するどころか、むしろそれを更に推し進めている、と指摘する(例えばここ)。
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アメリカ建国にまつわるナラティブは「政府の迫害を逃れて自由を求めた者たちが約束の地で新しい国家を創立した」というもので、現実は先住民の虐殺に見られるようにそのように綺麗なものではなかったにせよ、このナラティブはいまだに多くのアメリカ人の心をつかんでいる。しかし、以下の記事のようにアメリカ建国のナラティブの核心をなし、それを守るために自国がつくられた「自由」を亡くすとき、アメリカが何を拠り所にするのか、という声も挙がっている。
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もはやアメリカが自由の国ではない10の理由 (10 reasons the US is no longer the land of the free)
by Jonathan Turley Washington Post
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毎年国務省は他国における個人の権利に関するレポートを発表しており、世界における(個人の自由に対しての)抑圧的な法律や規制の進捗をモニターしている。例えばイランは公平な公開の裁判を拒否していることについて、ロシアはデュープロセスを弱体化させる手段をとっていることについて批判されている。その他の国々は非公開の証拠と拷問を使用していることについて非難されている。
自由がないと考える国々のことは批判するけれども、アメリカ人は自由な国家のいかなる定義においても自国は含まれていなければならない、と自信をもっている。けれど、その自由な国における法律とその運用は彼らの自信を揺るがせてしかるべきだ。2001年9月11日からの10年間、この国は国家の安全を広げるという名の下、市民の自由を包括的に縮小させてきた。その最も直近の例は12月31日に成立したNational Defense Authorization Actで、その法律は市民の無制限の拘留を可能にするものだ。我が国における個人の権利の縮小がどこまで進めば、我々は自分自身の定義の仕方を変えるのだろう?
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ワシントンが得てきた国家安全保障上の種々の権力はそれらが制定されるさいに議論を呼んできたけれども、個別に議論されがちである。しかしながら、それらの権力は孤立して機能するわけではない。それらは権力のモザイクを形成し、そのモザイクのもとで我が国は、少なくとも部分的には、独裁主義的国家(訳者注: Authoritarianは権威主義とも独裁主義とも言う)と考えうるかもしれない。しばしばアメリカ人はキューバや中国を自由のない国とカテゴライズし片づける一方、自身の国を世界における自由の象徴として褒め称える。しかし、客観的に見ると、我々は半分しか正しくないのかもしれない。それらの国々はたしかに、デュープロセスのような個人の権利を欠いており、あらゆる"自由"の妥当な定義の枠外に自国を置いている。しかし現在のアメリカは、誰も認めたがらないかもしれないほど、それらの国々によく似ているのだ。
それらの国々も自由と権利を保証することを目的とする憲法を持っている。しかしそれらの国の政府は、そのような権利を否定し、かつそれに対して市民が異議申し立てをする道を閉ざすことのできる広範な裁量を有する。そしてこれこそまさに、この国で制定された新しい法律群がもつ問題なのだ。
9/11以降で、米国政府が得てきた権力のリストは、我々が思う以上に我々を厄介な同胞の一員の側に置くものなのだ。
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アメリカ市民の暗殺
オバマ大統領は、彼の前にブッシュ大統領がしたように、テロリストもしくはテロリズムを幇助していると考えられるいかなる市民に対してもその殺害を要求できる権利を主張してきた。去年彼はこの(大統領が)備え持つ権限と称する権利の下、アメリカ市民であるアンワル・アル・アウラキともう1人の市民の殺害を承認した。先月、政府の高官はこの権力について再確認し、大統領はテロリストを幇助していると自身が考えるあらゆる市民に対し、暗殺を指示することができると述べた。
(ナイジェリア、イラン、シリアといった国々は国家の敵を法律の枠外で殺害することについて繰り返し批判されてきた。)
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無期限の拘留
先月制定した法律のもとでは、テロの容疑者は軍によって拘束されるものとなっている。くわえて大統領もテロリズムと関係があるとされた市民を無期限に拘留する権力を得ている。カール・レヴィン上院議員がその法案は「それがいかなる法律であれ」既存の法律を踏まえなければならないと主張したが、上院は明確に市民を除外しようとした修正を拒否した。そして政府はそのような権力に対し連邦裁判所の場で意義を申し立てようとうする試みに反対している。政府は自身の完全なる裁量によって市民から法的な保護を奪う権利をもつことを引き続き主張している。
(中国は最近、自国の市民に対し、より限定された拘留を可能にする法律を制定した。またカンボジアのような国はアメリカから"長期間にわたる拘留(prolonged detention)"を指摘されている。)
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恣意的な司法
今では大統領は市民が連邦裁判のもとでの公判を受けるのか、軍事法廷のもとでの裁判を受けるのかを選択することができる。これはまさに世界中で基本的なデュープロセスの保護の欠如として嘲笑されてきたシステムだ。ブッシュが2001年にこの権力を主張し、オバマはこの習慣を続けている。
(エジプトと中国は市民を含む選ばれた被告人に対し、軍事裁判のシステムを適用しているとして非難されてきた。)
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令状なしの捜査
今では大統領は令状なしに監視をおこなうかもしれない。その監視には市民の財政状況や通信記録や交友記録に関する情報を会社や組織に要求し、引き渡させるといったことが含まれる。2001年にブッシュは愛国法(Patriot Act)のもとでこの広範囲に渡る権力を手にし、2011年にオバマはビジネス文書や図書館の閲覧記録といったすべての捜査を含むよう、この権力を拡張した。政府は"National security letter"を使うことで、相応の理由なしに、組織に対して市民の情報を引き渡すように要求でき、その上関係当時者にそのような要求を明かさないように命令することができる。
(サウジアラビアとパキスタンは、政府が広範囲で裁量にもとづく監視を行うことを可能にする法律のもとで運営されている。)
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秘密証拠
政府は今では定期的に市民を拘留するに際し、非公開の証拠(訳注:secret evidence)を用い、連邦裁判と軍事裁判の場で非公開の証拠を採用している。政府はまた、アメリカ政府に対してなされる訴訟に関し、政府がもつ国家の安全を損なう可能性がある機密文書(訳者注:classified information)が明らかにされる可能性がある、と宣言することで、そのような訴訟を却下することができる。政府によるこの申し立てはプライバシーに関する訴訟に対してなされ、そのほとんどの申し立ては連邦判事に疑いなく受け入れられている。法律意見書(訳者注:legal opinion)でさえ、ブッシュ・オバマ政権のもとで政府の行動の基礎となったものとされ、機密文書に分類されている。これにより、政府は、政府による非公開の証拠を用いた非公開の訴訟を支持するための非公開の法的主張をすることができる。加えて、いくつかの訴訟はそもそも、決して法廷の場で争われない。連邦裁判所は日常的に、政策やプログラムに対する憲法上の異議を、訴訟をすることの当事者適格のもとで撥ね付ける(訳者注:"under a narrow definition of standing to bring a case"がよくわからなかったため、ここは意味がとおるように訳せていない)。d
戦争犯罪
世界はブッシュ政権の下、テロリズムの容疑者に対して水責めによる拷問を行った者に対し告訴を強く要求したが、2009年にオバマ政権は、CIAで働くものが水責めの類の拷問を行ったとして調査されたり、告訴されたりするようなことはさせないと述べた。これは条約義務だけではなく、国際法上のニュルンベルグ原則を骨抜きにするものだった。スペイン等の裁判所がブッシュ政権の高官を戦争犯罪人として調査しようと動き出したとき、報道によれば、オバマ政権は外国高官に対しそのような訴訟が進行するのを防ぐように要求した。アメリカは長年に渡り、他国において戦争犯罪人とされてきたものに対し同様の措置を要求してきたという事実があるのだが。
(多くの国家が戦争犯罪や拷問をおこなったとして非難される高官に対する調査に対して抵抗してきた。セルビアやチリのような国は最終的には国際法に従う方向で屈服した。独立した調査を拒否している国にはイラン、シリア、中国などが含まれる。)
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秘密裁判
政府は非公開の外国インテリジェンス監視法廷(Foreign Intelligence Surveillance Court)の利用を拡大してきた。その法廷は(アメリカに)敵対的な他国の政府や機関に協力したり、幇助したりしたとされる個人の拘束が可能になるよう、自己の権限を拡大させてきた。2011年にオバマはこれらの権力を更新した。この更新には識別可能なテロリストグループに属さない個人に関する秘密捜査を可能にすることが含まれた。政府はそのような監視に関する憲法上の上限を無視する権利を言い立てている。
(パキスタンは国家の安全を守るための監視をチェックをうけない軍部や諜報機関に委ねている。)
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法律的な審理からの免責
ブッシュ政権のように、オバマ政権は令状なしの状態で市民を監視する手助けをした会社への免責を押し通し、市民がプライバシーの侵害に異を唱えることを妨害してきた。
(同様に中国は国内と国外の両方からの異議に対し広範囲な免責を主張しており、民間の会社に対する訴訟を日常的に妨害している)
市民の継続的な監視
オバマ政権はいかなる法律的な命令や審理もなしに、GPS機器を使用し対象とする市民の一挙一動をモニターすることができる、という自身の主張を押し通してきた。(サウジアラビアは大規模な公的な監視システムを導入しており、キューバは選出した市民に対しての積極的なモニタリングで悪名高い。)
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囚人特例による囚人の(第三国への)引き渡し
政府は現在では囚人特例引き渡し(extraordinary renditions)というシステムのもとで、市民、非市民の両方を第三国に移送する能力を得ている。この制度はシリアやサウジアラビアやエジプトやパキスタンといった他国を容疑者の拷問を行うために使用するもの、として非難されている。オバマ政権はブッシュ政権のもとで行われたこの習慣の乱用を続けてはいない、と述べているが、アメリカ市民の移送の可能性も含んだ、囚人の引き渡しを指示することについて拘束のない権利を持つことは主張している。


これらの法律は、州および連邦レベルにおけるセキュリティーシステムの拡張のために使われる資金の流入と同期している。これらの資金はより多くの公的な監視カメラ、多数の保安要員、テロリズムを追跡する官僚機構の大規模な拡大を含む使途で使われている。
ある政治家は、こうした権力の拡大は単に我々が生きている時代に反応しているにすぎないといい、肩をすくめる。それ故、リンゼーグラハム上院議員は昨春のインタビューで、異議をうけずに「言論の自由(free speech)は素晴らしいアイデアだが、我々は戦争をしているのだ。」と宣言することができた。勿論テロリズムが"降伏"することはないだろうし、この特定の"戦争"を終えることもないだろう。
他の政治家は、確かにその種の権力は存在するかもしれないが、問題はそれがいかに使われるかだ、と正当化する。これはブッシュを批判したようにはオバマを批判することができないリベラル派に共通してみられる反応だ。例えば、カール・レヴィン上院議員は議会は無期限の拘束についてのいかなる決定をしているわけではない、と主張している。「これは我々が本来の決定者である大統領府に任せるべき判断だ。」
そして、Defense Authorization法案の調印時における声明のなかで、オバマは得られた権力を使い市民を無期限に拘置することは意図していない、と述べた。しかしながら、依然として彼は、本心ではない独裁者(regretful autocrat)としてそのような権力を受け入れている。
独裁主義的な国家というのは、独裁的な権力の使い途によって定義されるのではなく、それらの権力の使用が可能になる能力によって定義される。もし大統領が彼の権能であなたの自由や人生を奪うことができるとすると、すべての権利は最高権力者の意思に左右される裁量的な施しにすぎなくなる。
合衆国憲法の起草者達は独裁的なルールの下で生き、この危険について我々よりもよく知っていた。よく知られているようにジェームズ・マディソンは、我々には支配者の善意や善良な動機に依存しないシステムが必要であると警鐘を鳴らした。「人間が天使ならば、政府はいらない。」
ベンジャミン・フランクリンはもっと率直だった。1787年にパウエル夫人は憲法の調印を済ませたフランクリンに直面し、尋ねた。「あの、先生、私たちは何を得たのでしょうか?共和国でしょうか君主国でしょうか?」彼の反応は若干冷ややかなものだった。「共和制です。マダム。あなたがそれを保つことができればですが。」
9/11以来、我々は起草者達がまさに恐れたような政府をつくりだしてきた。広範でほとんど抑制されず、賢明に使われるであろうという希望に依存している権力を備えた政府だ。
Defense Authorization法案の無期限拘束に関する条項は、多くの市民的なリバータリアンにとってオバマによる裏切りのように映る。大統領は法案のその条項に対し拒否権を発動すると約束しているが、法案の発起者であるレヴィンは上院の廊下で、市民に対する無期限の拘束を除外するいかなる規定をも削除することに賛成したのは、実際のところ、ホワイトハウスであると明らかにした。d
アメリカ国民にとって政治家の不誠実はちっとも珍しいことではない。真に問題にすべきは、自国を自由の国というとき、我々は我々自身に対し嘘をついているのではないかということである。
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*ジョナサン・ターリーはジョージワシントン大学の法学教授
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2012年1月23日月曜日

金正日の下での北朝鮮の政策決定

死去した金正日体制のもとでの北朝鮮の政策決定プロセスについては2つの見方があった。

1つ目は金正日が強大な権限をバックにすべての政策決定を執行するトップ・ダウンに基づくシステムという見方。
北朝鮮の政策決定プロセスはなかなか見えづらいため、外部者が北朝鮮を評価する場合、手に入り見えやすい情報に頼っての解釈になる。金正日の動向・言動等はもっとも得られやすい類のものであったため政策決定プロセスの説明も彼個人の属人的な要素に帰せられがちである。

もう1つの見方として、リーダーとリーダーの下で働く複数のアクターとの相互作用に注目して政策決定プロセスを分析する議論も金正日以前から存在した。この見方においてもリーダーは強力な権限を有するものの、国の政策が決定される際にはリーダーの下で働く複数の機関も独自の論理・目的で行動し、政策に影響を及ぼす。
従ってこの見方によると、北朝鮮を外部から観察する場合はリーダーの発言だけではなくほかのアクターの要素を考える必要がある。

以下のPatrick McEachenのInside The Red Box-North Korea's Post-Totalitarian Politics, 2010は後者の見方をとっている。
金日成に比べた場合、金正日のリーダーシップはより限定されたものであった、とMcEachenは述べる1994年の権力承継以降自身のカリスマ性の弱さを補うため、金正日は党、軍、内閣という3つの機関を相互に争わせることで自身の権力基盤を維持してきた。北朝鮮の国としての政策もこの3者と金正日の相互作用により形成されてきた。McEachenによると1990年代後半/2000年代の北朝鮮にみられる、外交交渉の場での融和スタンスから対決スタンスへの突然の急変等は、金正日個人の移り気な気質によるものではなく、権力を争うプレーヤー間の相互作用によって発生した可能性が高い。McEachenは金正日の統治システムを"Post-Totalitarian(ポスト全体主義)"システムと呼んでいる。

この見方を現状に当てはめると、カリスマ性において金正日に劣る息子(金正恩)への権力継承により北朝鮮内のパワーはより細分化されたことになる。現状は権力の移行後に現れる体制で各アクターがどのような影響を握るのかについてはまだよくわからない、といった段階だろうか。

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以下少し古いがLos Angels TimesのWebに載ったBarbara Demickの12月19日付の記事からの移行期の北朝鮮についての記述。この記事でDemickは金正恩の叔父(金正日の義兄弟)にあたる張成沢(Jang Song-Thaek)の影響が強まるという観測とともに、金正恩の権力基盤の弱さを指摘している。Demickは北朝鮮の脱北者を扱ったNothing to Envy(日本語版「密閉国家に生きる-私たちが愛して憎んだ北朝鮮」)の著者であり、現在は中国をカバーするジャーナリストである。
Current and former U.S. officials are divided on what to expect from the relationship between Jang and the new leader. Chuck Downs, a former Pentagon and State Department official, said the younger Kim was likely to be a figurehead with Jang running the show.
Downs said he has concluded from years of watching North Korea that Kim Jong Un is not nearly tough enough for the job.
"You don't go from a guy who tries to be friends with everyone at his Swiss boarding school, who befriends enemies of North Korea and puts a poster of Kobe Bryant in his room, to being the kind of ruthless person who rules North Korea," he said.
Current U.S. intelligence officials concur that Jang is likely to play an important role, but regard him as too cautious to try to seize power for himself. And the U.S. government assessment is that Kim Jong Un is indeed ruthless enough to rule.
Regardless, North Korean officials are likely to emphasize order while the succession unfolds. The military appears to be taking a more prominent role. The announcement Monday of Kim's death was signed by entities from the party, military and people's assembly.
"A lot depends on whether the power centers of the regime coalesce around Kim Jong Un, or see this period of uncertainty as an opportunity to change the balance of power internally," a U.S. official said. "Those are very tricky calculations to make in an authoritarian society like North Korea."
元そして現役のアメリカの高官の間では張成沢と新しい指導者の関係から何が予想されるかについては意見が分かれている。元ペンタゴン及び国務省職員のChuck Downsは金正恩はおかざりで、張が事態を取り仕切ることになりそうだという。
Downsは北朝鮮を長年見てきた経験から、金正恩は北朝鮮のリーダーとしての仕事に耐えうるほどタフではないと結論した、という。
「スイスの寄宿学校で誰とでも仲良くしようと努め、北朝鮮の敵国出身の生徒と友達になったり、コービー・ブライアントのポスターを自室に貼ったりする人間から北朝鮮を支配する冷酷な類の人間になったりすることはできない。」 と彼は述べる。
アメリカのインテリジェンス(諜報)部門の職員は、張氏がより重要な役割を果たすようになりそうだ、という見方には同調するが、張氏は自身で権力を握ろうと試みるには慎重すぎる人物であるとみる。そして米国政府の評価は金正恩は北朝鮮を支配するのに充分なほど冷酷だ、というものだ。
 それにもかかわらず、北朝鮮高官は権力承継がおこなわれる間は秩序に気を配りそうだ。軍部はより大きな役割を果たすようになることが予想される。月曜日の金正日死去の発表は党、軍部、内閣の機関によって署名されていた。
「レジーム内で権力を持つ機関が金正恩を中心にしてまとまるか、それともこの不確実な期間をレジーム内のパワーバランスを変えるチャンスとみるかに多くがかかっている。」とアメリカ高官は語る。「これらの計算を北朝鮮のような独裁主義的な社会において行うのはとても難しい。」

2012年1月20日金曜日

ホッブス: 近代社会科学の開祖?

下にMark ThomaのEconomist View経由で知ったDaniel Littleの2009年3月27日のブログポスト("Hobbs an institionalist?")を適当に訳した。Daniel Littleは哲学博士でミシガンディアボーン大学の総長。

専門家以外でリヴァイアサンを全巻読み通す人はほとんどいないだろうが、昔途中まで読んだとき、理論の内容はともかくとしてその構築の仕方がやけにモダンだと思った記憶がある。

ポストはミクロ的基礎づけに依拠する近代社会科学の方法(近代科学の方法論であり、現代経済学の主流をなす方法論でもある)を社会科学に最初に適用したのがホッブスであったと指摘している。トーマス・シェリングのMicromotives and Macrobehaviorについて少し言及されているが、これは大変面白い本なのでいつか取り上げたい。
Thomas Hobbs (1588-1679)

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Hobbs an institutionalist?/ホッブスは制度主義者?
by Daniel Little 

驚くべきアイデアがある:近代の全政治哲学者の中で、近代科学と論理と世界観を共有するのに最も近づいているのはトーマス・ホッブスである。リヴァイアサン(1651)で彼は、近代の制度主義的/合理選択アプローチによる社会の説明に似通った言葉を使い社会を理解するという問題に着手している。彼のやり方は社会の構成員に関する推論からそれらの構成員によって構成される全体についての結論に進むという流れであり、構成的なアプローチ(訳者注:constructive approach)である。彼は個人がどのように推論し、何が彼らの最も基本的な動機なのかについて扱う、エージェントに関する理論を提出した。個人は合理的且つ利己的であり、他のエージェントがとるであろう行動を予測するという点で戦略的である。その上で彼は、その中で社会的行動が行われる2つの制度設定についての描写を提出した。"威圧する"ような政治制度が存在しない自然状態と個人の行動を規制する法律を課す単一の主権が存在する主権国家である。

彼は最初の制度設定においては主権の不在というコンテクストの下での競争は、永続的な暴力的な競争にいきつくと主張する。彼は二番目の制度設定においては法律システムというコンテクストの下での個人の利益追求は、財産の蓄積と平和的共存に行きつくと主張する。

以下はリバイアサン13章に記載のある個々のエージェントに関するホッブスの前提である。
我々が目的を成し遂げられるという希望の平等さはこの能力の平等さから生じる。そしてもし2人の男が、共には得ることができないにもかかわらず同じものを望むならば、彼らは敵同士になる。そして彼等自身の目的のため(大抵の場合それは彼らの自己保存であり、時々はただ楽しみのための場合もある)、お互い同士を滅ぼしたり、服従させようと試みる。そしてここから次のことが起こる。侵略者が他の人間1人分の力くらいしか有していない状況において、もし彼が好適な場所を耕すか、または種をまくか、または建物を建てるか、もしくは所有しているならば、他の集団が彼の所有物を取り上げ、彼の労働の果実だけでなく命や自由までも奪うために団結してやってくることが予想されるかもしれない。そしてその侵略者もまた誰かがやってくる危険のもとに置かれるのである。

したがって我々は人間の性質の中に、紛争の原因となる3つの原因を見出す。最初は競争である。次は不安さである。三番目は栄光である。最初の原因は人間に利得のために侵略をさせる。二番目は安全のために侵略をさせる。3番目は名誉のために侵略をさせる。最初の原因は人間に、他の人間や、その妻や、その子や、その家畜の主人となるために暴力を使わせる。二番目はそれらを守るために暴力を使わせる。3番目は、彼ら自身もしくは彼らの親族、友達、国家、職業、名前に対する言葉、嘲笑、異なる意見、その他の、蔑みの徴しとなるようなささいなもののために暴力を使わせる。

人間を平和に向かわせる感情は、死への恐怖、便利な暮らしに必要となる物への欲求、自身の精勤によりそれらを得ようとする希望である。そして理性により人間同士が合意するようになる平和に関する好適な条項が示唆される。これらの条項は別名自然法と呼ばれるものであり、私はそれについて次の2章でより詳しく論じる。
そして個人によるこれらの動機や行動様態は、自然状態の中で集まって予想されうる結果に行きつく。万人の万人への闘争である。
従って、万人が万人の敵となる戦争の際に生じるのと同じ結果が、人が自分の力と発明が自身に与える防備以外のものを持たず暮らしている時に生じうる。そのような状態の下では労働からの果実が不確実になるため精勤の余地がない。そして結果として、地球上に、文化や、航海や、海上から輸入された商品の利用や、便利な建物や、大きな力を必要とするそれらの移動に関する指示や、地球の運命に関する知識や、時の計測や、芸術や文字や、社会は存在しなくなる。そして最悪なことに絶え間ない恐れと暴力による死が存在し、人間の生活は孤独で貧乏で忌まわしく野蛮で短命になる。
これは制度主義者の議論である。これはある特定の制度設定のもとで、あるエージェントに予想される振る舞いをモデル化している。そしてその後これらの"ミクロ的基礎"が集計された社会に与える結果を推定している。つまりホッブスは、エージェンシーの行動様式に関する分析とある特定の制度的背景に関する想定を基礎としてミクロからマクロへと至る議論を提出している。

このロジックを現代の合理的選択の理論家であるジェームズ・コールマンのFoundations of Social Theoryの中で提供されている社会に関する説明のロジックと比較してみよう:
社会システムの挙動に関する2つ目の説明は内部からシステムへのプロセスを検証することを必要とする。内部の検証はそれを構成するパーツや全体システム以下の単位を含む。原型的なケースは構成するパーツが社会のメンバーである個人であるケースである。他のケースにおいては、構成パーツはシステム内の諸制度であったり、システムの一部であるサブグループであったりする。すべてのケースにおいて分析はシステムより下のレベルへ降りていき、システムの振る舞いをそのパーツの振る舞いにさかのぼって説明するものとみなせる。この説明様式は量的あるいは質的のどちらか一方であるとは限らず、双方を含む場合もあるかもしれない。
したがって、ホッブスの議論の論理はとても明瞭である。そして制度的-合理選択の理論家のそれととても似通っている。トーマス・シェリングの本のタイトルMicromotives and Macrobehaviorはこのアイデアを3語で捉えている。すなわち個人レベルでの動機と行為に関する推定から、マクロレベルでの社会的な配置や振る舞いの描写を導出するということだ。

自然状態において何が可能であるかについてホッブスが置いた特定の想定に関して異議を唱えても、それはホッブスの哲学的分析に対する深い批判にはならない。そして実際のところ、現代のポリティカルサイエンティストの多くが、ホッブスが自然状態と呼んだ文脈の中において男と女がノン・ポリティカルな制度をつくることが可能だと主張している。調整と協調(Coordination and cooperation)は"自然状態"のもとでも確かに可能だろう。アナーキーの中からでも協調を達成するのは可能だ。社会学の視点から見ると、実際のところこれは友好的な修正である。それは単にある種の協調の実現可能性に関し、追加の前提を付け加えているのだ。だから"アナーキー状態でも協調はありうる"といったホッブスへの批判は、集権的で抑圧的な権力に依存しない存続可能な社会的制度の実現可能性に関しての実質的な議論として理解される。そしてそれは、ローカルグループに属する人々が、ただ乗りや侵略的な行動を克服する自主的な規制の形をとった協調を確立するための状態やメカニズムに関する特定の想定に依存している。ホッブスはこの議論によっては説得されなかったであろうと考えるに充分な論拠がある。しかし結局のところそれは実証的な問題である。

この見地から見た場合、自然状態に関するホッブスの結論に対してなされたいくつかの議論はとても価値がある。第一にマイケル・テイラーがCommunity, Anarchy and Libertyの中で行った議論はとても説得力がある。元来、農民のコミュニティーは、安定化のために法の力を用いなくても持続する協調的な制度や関係をつくりだし、維持するための方法を見出してきた。法律システムを裏付けとする"契約"は、個々のエージェントの間で調整と協調を確立するための唯一の方法であるわけではない。ロバート・ネッティング(Robert Netting)はSmallholders, Householders: Farm Families and the Ecology of Intensive, Sustainable Agricultureの中で、伝統的な労働シェアと季節における協調のなかから関連する例を提出している。そしてエリノア・オストロム(訳者注:2009年ノーベル経済学賞受賞)と彼女の同僚は彼女たちの"共有財産レジーム[common property resource regimes]"に関する歴史的そして社会的な研究のなかで同様の議論を行っている。それは基本的に、中央政府の法制ではなく地域による自発的な施行により維持されている安定的な協調パターンについての研究である(Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action)。オストロムは中央政府による調整と協調に対する支援がなくても、伝統的なコミュニティーが漁業や林業や水資源やその他の共有財産を管理してきた重要な歴史的事例を多数報告している。

しかしながらこれらは、ホッブスが17世紀半ばに行った仕事によって先鞭がつけられた、社会を説明するための根本的に一貫したモデルに対する実証的且つ理論的な改良である。そのモデルとは個々のアクターのレベルでのメカニズムと行為の結果から集計的な(マクロの)社会的な結果を説明するモデルである。
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リヴァイアサン 表紙

2012年1月19日木曜日

世界地図でみるインターネットへの検閲

インターネット検閲度別の世界地図(ソースはここ)。

蔓延する検閲してる(Pervasive Censorship/黒):北朝鮮、中国、サウジアラビア、イラン、エジプト、トルクメニスタン、ウズベキスタン、シリア、チュニジア
監視下(Under Surveillance/赤):韓国、ロシア、オーストリア、タイ、トルコ、UAE、エリトリア
何らかの規制(Some Surveillance/黄):米国、日本、EU等の先進国はこのゾーン







メキシコ、モンゴル、カンボジア、ベネズエラとかは規制がない(青)みたいだけど本当?

2012年1月18日水曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -⑤

今まで3回に渡り本書の中心となる3つのテーマに即して概要と感想を載せてきたが、今回は最後として全体の感想を。
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New York Timesが2011年のBest10(ノンフィクションに限るとBest5)に挙げており、その他の書評でもほぼ一貫して高い評点がつけられているがその評価に違わず、本書は示唆的な内容に富んだ優れた本である(「国富論」や「夢判断」と同じリーグ(@タレブ)かは筆者には判断がつかない)。

また記述の仕方も容易なため誰にでも読みやすい形でアクセスが可能でもある。どのアイデア、理論も読んだ後で振り返ると「言われてみれば当たり前」に思えるのだが、往々にして優れた理論というのはそういうものであり、それをきちんと観察し、実験を経て、言葉や概念として理論化するのは時間や労力や多少の運が必要なのだろう。

内容以外に本書の中から印象に残った2つの場面について。

【トベルスキーとの研究】
長年の共同研究者であり、1996年に死去したエイモス・トベルスキーへの敬愛と感謝の念が本書を通じて貫かれている。以下15年近く続いたトベルスキーとの幸福な(ように見える)共同研究について。
エイモスは理論への志向と進むべき方向について誤らない感覚をもち、私よりも論理的だった。私はより直観的であり、認知に関する心理学に依拠しており、我々はそこから多くのアイデアを拝借した。我々はお互いを容易に理解するのに十分なほどは似通っており、同時にお互いを驚かせるのに十分なほどは違っていた。我々はそのなかで多くの時間を一緒に過ごすことになるルーティーンをつくりあげた。しばしば長い散歩という形で。それからの14年間に渡り、我々の協力関係は我々の人生の焦点であり、この期間に行った仕事はお互いが行ってきた仕事のなかで最良のものとなった。(6Pより)
【学者として】
ところどころに現れるカーネマンの学者としての姿勢もフェアー(反論に対して寛容)で昨今分断されがちな印象のある社会科学系のアカデミア事情を背景とすると新鮮に写る。

以下一例。カーネマンは自分たちの学説に対し、最も強い反論を唱えるGaly Kleinに対して共同研究を申し入れ、Kleinと長年にわたる共同研究に乗り出し、最後に論文を発表した。
それから7、8年にわたり、我々は多くの議論をし、不一致の多くを乗り越え、何度か(共同研究を)取り止めにしかけ、多くのドラフトを書き上げ、友達になり、最後にタイトルが論文の内容を物語る"Conditions for Intuitive Expertise: A Failure to Disagree"という共著論文を発表した。実際のところ、我々はそれに関してお互いの意見が一致しない本当の問題に出くわすことはなかったが、お互いの意見が本当に一致することはなかった。(235Pより)
最後に一つだけ気になった点を。本書にいくつか出てくる行動経済学に基づく政策提言の部分は若干弱い、というか説得的に論じるには紙幅が足りていないような気がした(これについてはWilliam EasterlyもFTに載せた書評で指摘している)。
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僕のやることなすこといつも間違えだらけなんだけど、どうすればいい?

2012年1月16日月曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -④

今回は本書の3つ目のテーマである2人の自己(two selves)について扱う。なおカーネマンは本テーマと同趣旨の内容を以下のTEDトークで講演している。本書に沿ってテーマの簡単な紹介をした後、感想を付した。
出所: Daniel Kahneman on TED talk
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【2人の自己】
カーネマンによると効用(utility)という言葉の中には2つの違った意味が含まれている。1つは実際に体験される効用(カーネマンはこれを"experienced utility"と呼ぶ)で喜びや痛みなどを指す。もう1つは意思決定を考える際に使われる効用(カーネマンはこれを"decision utility"と呼ぶ)。
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経済理論はこの2つが一致することを暗黙に仮定するが、両者は必ずしも一致するとは限らない。そしてこの不一致は「幸福」や「厚生」を考えるさいに、重大であり哲学的でもある問題を引き起こす。
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カーネマンはより具体的に上記を下のように言い直す。時間を通して我々のなかには以下の2人の自己が存在する。
  1. 体験する自己(experiencing self):出来事が時間のなかで生起するさい、 実際に時間の流れに沿ってそれらを体験する自己
  2. 思い出す自己(remembering self):時間がたった後に一連の出来事を振り返って思い返すさいの自己
思い出す自己はシステム2の産物であり、我々が物事や事象を思い出すさいにはこの自己を介するが、この自己が記憶を復元するやり方には特定のメカニズムがある。そしてこのメカニズムにより、体験する自己と思い出す自己の認識が一致しない事態が発生する。

【2人の自己-事例1】
カーネマンは自身がRedelmeierと共同で行った以下の実験を紹介する。

実験:手術AとBをうける患者について、痛みを伴う内視鏡検査が行われている間、1分ごとに患者がその時点で感じた痛みを10段階(0は"痛み無し"、10は"耐え難い苦痛")で記録していく。手術Aをうける患者の検査は平均で8分続き、手術Bをうける患者の検査は平均で24分続く。以下は時間を横軸として手術Aをうけた患者と手術Bをうけた患者が申告した痛みを表すグラフ(の1例)である(下の例ではAの手術は8分、Bの手術は24分で両者とも最終の時点は手術の終わりなので痛み無しで0となる)
出所:上はカーネマンのノーベル賞受賞記念講演のさいのペーパーより引用した
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この手術の後、それぞれの患者について"手術中の痛みの合計"を10段階評価で評価するよう依頼した。この作業を多数の患者について行った。
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この結果として統計的に以下の結果が得られた。
  • ピーク・エンド・ルール(Peak-end rule):"痛みの総計"として報告される数字は"手術期間の最悪の苦痛"と"手術期間の最後の時点での痛み"の平均として予測できる
  • 持続期間の無視(Duration neglect): 手術の持続期間は患者が申告する苦痛の総計に影響を及ぼさない
上の図から見れば"痛みの総計(=灰色の部分の痛みの総面積)"は明らかにBのほうが大きいのにもかかわらず、ピーク・エンド・ルールによるとAが痛みの総計として申告する数字7.5(最悪の苦痛8と最後の時点での痛み7の平均7.5)はBの4.5(Average(8,1)=4.5)よりも大きく、Aのほうが"痛みの総計"を大きく申告する。

上のルールは対象が"痛み"という事象のみにあてはまるものではなく、"幸福"というような他の事象にもあてはまる(幸福については下を参照)。

ここでは体験する自己と思い出す自己との間に乖離が発生している。これは様々な問いを提起する。例えばこの実験の結果を知った医者は以下のうちどちらを選択すべきだろうか?
  • 患者の「苦痛に関する記憶」を減らすことを目的とすれば、手術時間を短縮するのではなく、最悪の苦痛を減らしたうえで、手術時間を延ばして徐々に痛みを減らしていくことのほうがプライオリティが高くなる
  • 患者が「実際に経験する痛みの総量」を減らすことが目的ならば例え苦痛の激しさが増すとしても手術時間を短縮したほうがよい
カーネマンによるとマジョリティは下の選択肢を選ぶ、つまり体験する自己の提起する問題(「いま痛い?」)と思い出す自己の提起する問題(「全体としてどうだった?」)が衝突した場合、思い出す自己のほうが重視される傾向が強い。

【2人の自己-事例2】
思い出す自己が重視される例として、カーネマンは以下を挙げている。

思考1:あなたは今からとてつもない痛みを伴う手術を体験する。あなたは泣き叫び術者に中止を願う。しかし術後あなたは体験したすべての痛みを完全に消去する薬を投与され、苦痛の痕跡は完全に除去される。

思考2:あなたは今から素晴らしいバカンスを体験する。ただし、バカンの後あなたがバカンスに行ったことを示す証拠(写真やビデオ)はすべて消去されたうえ、投薬によりあなたのバカンスの記憶は完全に消去される

上記2つの思考いずれでも体験する自己と思い出す自己が対立する。これらに関してもカーネマンは驚くほど多くの人間が思い出す自己を重視する、と述べている(つまり思考1ではそのような手術の痛みをあまり気にかけず、思考2ではそのようなバカンスには価値を認めない)。
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思考3:あなたはコンサートに行った。あなたは素晴らしい演奏を体験していた。ところが演奏の最後の最後で不快な音が発生した。

多くの人がこのコンサートを思い出すさいには、途中まで素晴らしい演奏を聴いていたにもかかわらず、最後の不快な音とともに「不快なコンサート」として思い出す。

【「幸福」?】
「ピーク・エンド・ルール」と「持続期間の無視」は痛みだけではなく、我々の「幸福」の評価にも影響を及ぼす。以下はカーネマンが紹介する実験より。

実験概要: 実験の参加者はジェンという架空のキャラクターについての描写を読む。彼女は未婚であり、子供はなく、交通事故により即座に苦痛なく死んだ。彼女の人生について参加者に以下のストーリーが提供された。
  1. 彼女は仕事や休暇を楽しみ、余暇を友達や趣味とともに過ごし、とても幸福な人生を送った。*彼女の人生の長さについては30年のケースと60年のケースがあり、それぞれの参加者に対して2つのうちのどちらかを渡した。
  2. 上記のストーリーに5年の追加の人生を付け加えたストーリー(つまり彼女の人生は35歳か65歳)。ただし付け加わった5年の期間において「彼女は引き続き幸福であったが前ほど幸福ではなかった」("pleasant but less so than before")。
上記を読んだ後、参加者は彼女の人生を評価するように依頼された。
質問1「彼女の人生を総体として考えた場合、ジェンの人生はどれくらい望ましいものだったと思う?」
質問2「ジェンは彼女の人生でどれだけの量の幸福または不幸を経験したと思う?」

実験結果として
1においてジェンの人生の長さ(30年or60年)はジェンの人生に対する参加者の評価に影響を与えない(持続期間への無視)。
2において"ほんの少し劣る5年間"を付け加えた場合には参加者の評価は著しく下がる(ピーク・エンド・ルール)。

我々が人生を評価するさいには、人生を瞬間が堆積した時間における幸福の総量として評価するのではなく、人生の特定の時間における幸福さ(というナラティブ)によって評価しているようだ。
⇒カーネマンは結論部分でこの考えを突き詰めていくと「長期間の平穏さよりも短期間の喜びを重視する」という考えに至り「今それをすると後悔する」といった類のアドバイスの効力が薄れるような事態にもなり得ると言っている。

【フォーカシング・イリュージョン】
「人生がどれだけ幸福か?」というような大きな問題を評価する場合、我々の頭脳はそれを「より答えがでやすい簡単な問題」に置き換える傾向がある(システム1の働き)。例えば本書には次の事例がでてくる。

・最近どれくらい幸せですか?
・先月何回デートをしましたか?

この質問をこの順番で問われた学生の答えを統計的に見ると2つの質問の相関はゼロだった(つまり「人生の幸福度」と「先月のデートの回数」には関係がない)。しかし質問の順番を変えて、

・先月何回デートをしましたか?
・最近どれだけ幸せですか?

という順番で質問をした場合、「先月のデートの数」と「幸せの評価」は強い相関を示す(デートの数が多い人ほど幸せ)。

2番目の質問では我々の頭脳は「幸せ」という問題を「先月のデートの数」という簡単にわかる数字に置き換える。

また人生の問題のような大きな問題を考える場合、我々の答えは質問に答える時点での「天候」や「ムード」にも大きく支配されることが知られている。

このような人間の頭脳の働きはシステム1によって駆動されており、我々が大きな考えづらい、簡単に答えが見つからない問題(「人生の幸福」「結婚の幸福」等)を考えるさいには、それを簡単な形(「デートの数」「今日の天候」「今日の気分」)に置き換える。このように大きな問題を考える際、答えがその時点で注意を引き付けるものに大きく依存することを「フォーカシング・イリュージョン」と言う。カーネマンは言う。
Nothing in life is as important as you think it is when you are thinking about it.
人生において、あなたがそれを考えているときに重要だと考えること以上に重要なものはない。  
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【雑感】
本テーマは本書のなかで第5部のわずか40ページ足らずの分量を占めるだけだが、記憶、幸福、評価といった問題を考える際のいくつかのシンプルな枠組みを提示している。それらが提起する問題は深く、哲学的な内容であり、読者に様々な思考をおこなわせる内容になっている。なお筆者は本部分を読んで真っ先にヨーゼフ・ロートの「聖なる酔っぱらいの伝説」が頭に浮かんだ。主人公はパリの橋の下で貧乏暮らしを送っていたのだが、ある日の奇妙な出来事から彼の身の回りに不思議な出来事が起こり始め、最後にとても幸せな死を迎える。ピーク・エンド・ルールに重ねて、主人公の人生は幸せだった。

現代マクロ経済学の主要モデルの一つであるRamseyモデルでは「期間における集計化された家計の消費量を最大化する」、という形で目的関数が定義されることが多い。そこでは消費の総量が幸福の総量の近似値として使用されているように思えるが、これは体験する自己の立場にたつ形で「幸福=幸福の総量(総面積)」を上げることを目的としている、とみなせる。

しかし上にあげた幸福の評価に関する実験結果は「そもそも"幸福の総量"よりも、"期間における最大の幸福値"や"期間の終わりの時点の幸福"のほうが人々の幸福に関する評価に大きな意味を持つ」可能性を示している(思い出す自己>体験する自己)。

それでは経済政策も思い出す自己の立場にたつ形での「幸福」を最大化することを前提とするべきか?その場合、ピーク・エンド・ルールを突き詰めて考えると、元気な人にリソースを割くよりも死期の近い人々に最大の満足を与えるようリソースを割くべき、となるのではないか?等という疑問がでてくる。

またそもそも持続期間の無視とピーク・エンド・ルールを適用すると「ある人の人生の評価において人生の長さ事態には意味がない」という結論(思い出す自己の立場)が導けそうだが、それに対して「思い出す自己の評価からは無視される人生の瞬間瞬間の時間の堆積は大切であり、長い寿命は良いことだ」(体験する自己の立場)という反論は意味を持つのだろうか(記憶から消えてしまう時間の価値をどのように位置づけるのだろうか)?

加えてそもそも簡単な答えのない大きな問題(「私はどれだけ幸福か?」等)を扱う場合、人の評価自体が相当いい加減になる(フォーカシング・イリュージョン)ようだが、そのような自己の評価にどれだけ重みをおくべきだろうか?

思い出す自己と体験する自己の不一致について、もう一つだけトピックを挙げると、現在世界で「記憶を部分的に消去する薬」の開発が進められており、近いうちに実用化される可能性があるが、これにより意図的に体験する自己の体験を消去することは許されるのだろうか?

カーネマン自身は「両方の自己について考えるべき」、として一方を完全に無視するのは誤りであるとしているが、あまり突っ込んだ話はしていない(突っ込むとボリュームのある内容だからだろうが)。

いずれにせよ本パートは従来経済学で使われてきた「幸福」「記憶」「時間」「自己」といった概念に新たな複雑性を加える内容を含んでおり、伝統的な経済学が扱ってきた領域を踏み越えて哲学や認知科学その他の隣接分野に越境しているように思われる。カーネマン自身が心理学の出身であることを考えると、「経済学からほかの分野への越境」という言い方よりも「ほかの分野(心理学)の知見を経済学に接続した」という言い方のほうが正しいのかもしれない。

2012年1月12日木曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -③

引き続き本書の中心テーマを1つずつ紹介していくが、今回は「2種類の人間」について触れる。概要の紹介と雑感を付けた。
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【2種類の人間】
カーネマンは経済学が仮定する経済人は人間の現実をとらえていないという(なおカーネマンは経済学を規範的な理論ではなく現実をあらわす理論としてとらえている)。
  • 経済人(ECONS):経済学で想定される選択の一貫性を有する合理的な意思決定者
  • 人間(HUMANS):必ずしも合理的な経済学のモデルではとらえられない現実の意思決定者
カーネマンによると、人間は非合理的ではないが、経済学で想定されるエージェント(ECONS)のようには合理的ではない。実験で得られた知見から人間(HUMANS)の意思決定の実相をよりよく反映するための理論としてカーネマンはプロスペクト理論を紹介する。
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【プロスペクト理論-事例】
カーネマンとトベルスキーは一連の実験から選択の一貫性という経済人が依拠する仮定が現実世界では成り立ち難いことを示し、プロスペクト理論を提唱した。プロスペクト理論は経済学の専門誌Econometricaに発表され現在に至るまで引用され続けている(カーネマンのノーベル経済学賞受賞理由でもある)。以下本書に沿った簡単な説明。なお以下の例は本書からとったが単位だけ変えた(ドル⇒円)。
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A, Bそれぞれが以下の2つの選択肢から1つを選択しなければならない。それぞれどちらを選択するだろうか?
1:手持ちの資産が50%の確率で1億円に、50%の確率で4億円になる。
2:手持ちの資産が100%の確率で2億円になる
この選択に臨むA,Bの2人はそれぞれ1億円と4億円の資産をもっている。
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⇒Aは1を選択すると、手持ちの資産(1億円)が「そのまま」か「4億円」になる。2を選択すると、資産が確実に「2億円」になる。
⇒Bは1を選択すると、手持ちの資産(4億円)が「1億円」になるか、「4億円」のままである。2の場合は確実に「2億円」になる。
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カーネマンによると、このような選択に直面した場合、多くの人がAの立場であれば2を、Bの立場では1を選び、同じ人でもAの立場とBの立場で選択が別れることが多い。何故だろうか?カーネマンによると多くの人は以下のように考える。
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A:「2を選ぶと確実に資産が2倍になる(ゲインが1億)。これはよい。1を選ぶと5分5分で資産が4倍になる(ゲインが3億)か、何も得ない(ゲインが0)かだ。」
B:「2を選ぶと確実に資産が半分になる(ロスが2億)。これはよくない。1を選ぶと5分5分で資産が1/4になるか(ロスが3億)、何もなくさない(ロスが0)かの選択になる。」
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結果多くの人はAの立場ではリスク回避的な選択をし、Bの立場ではリスク愛好的な選択をする。実はこれは合理的な意思決定者の視点から考えるとおかしい。
⇒現在の手持ち資産と選択肢の結果の間にはなんの関係もないのだから、現在の資産が選択に影響を与えることはないはずである。
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【プロスペクト理論-原理】
プロスペクト理論では選択を行う際人間は以下の3点を考慮する。
1. <レファレンス・ポイント>自分がいた/いる地点(レファレンス・ポイント)との比較(ゲインかロスか)で選択肢を評価する
⇒上でAは選択肢を自身のレファレンス・ポイント(1億円)と比較し、0、1、3億のいずれかのゲインという視点で、Bの場合はレファレン・スポイント(4億円)から0, -2, -3億のいずれかのロスという視点で評価する。
2.<効用(不幸用)の逓減>レファレンス・ポイントからの乖離が大きくなると我々は同程度の変化に対して等分の効用(不幸用)を得なくなる(たとえば我々は1億から2億の変化(+,-いずれも)に対して、10億から11億の変化よりも大きく反応する)。
3.<ロス回避>同程度のロスをゲインよりも大きく評価する。例えば多くの人は50%の確率で1万円を得、50%の確率で1万円を失うギャンブルを行わない(進化の過程で身につけたリスクを避ける習性)。
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上記を勘案したプロスペクト理論の効用関数は下の図のようになるが、下ではA,Bが直面する選択肢の説明を加えてみた。


出所: Wikipedia Prospect Theoryのグラフに筆者が追記
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【プロスペクト理論-レア・イベント】
実は、ゲインやロスに対してリスク回避的になるかリスク愛好的になるかは、選択者が直面する確率で変わってくる。最後にもう1つだけカーネマンの本から例を挙げる。
1. 95%の確率で100万円を得る(=5%は何も得ない)か、100%の確率で95万円を得る
2. 95%の確率で100万円を失う(=5%は何も失わない)か、95万円を確実に失う
3. 5%の確率で100万円を得るくじを買うか、何もしない
4. 5%の確率で100万円を失うか、保険にお金を払って100%何も失わないようにする。
⇒多くの人は、1では後者(リスク回避)、2では前者(リスク愛好)、3では前者(リスク愛好的)、4では後者(リスク回避的)になる。上をまとめると以下のようになる。
 例えばそれなりに高確率の事象のゲインに直面すると、人はそのゲインを確定させたくなる(左上:前のAの場合)。ロスの場合はむしろリスク愛好的になる(右上:前のBの場合)。これに対して低確率(レア・イベント=まれにしかおこらない)な事象においては人の選択は異なってくる。人はこのような事象が起こる確率を実際よりも過大評価する。従って低確率のゲインに直面すると人はゲインがでる確率を過大評価しリスク愛好的になる(左下:例 くじ引き)、ロスの場合も低確率の事象の確率を過大評価してリスク回避的になる(右下:保険)。
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同じ人が確率の高/低によってゲインやロスを伴う事態に直面し違う態度をとる。
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【雑感】
カーネマンは効用理論を批判しているが、それを完全に棄て去ったわけではなく、プロスペクト理論に関しては効用理論の前提に追加・修正を加えたものとして説明している。このほかレファレンス・ポイントといった概念を用いて経済学でつかわれる無差別曲線上の各点は本当に「無差別」なのか、といった問題提起もしている(ブライアン・カプランマンキューもこの論点を取り上げていた)。
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プロスペクト理論では我々の判断は、過去の堆積の上にある現在地点(レファレンス・ポイント)とそこからのゲインとロスを基準になされる、と仮定される。これは多くの交渉の場面で見られる現象である。例えばプロ野球選手の年棒交渉などを見ても、改定前の条件(出発点)と比較して「上がったか、下がったか」という取り上げ方がされるのは、年棒交渉がレファレンス・ポイント(今年の年棒)を基準にした交渉だからなのだろう(なおゲーム理論にも交渉の収束点としての「フォーカル・ポイント」という似たような概念があるがこの2つの概念が対応するのかどうか筆者には分からない)。
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また、レファレンス・ポイントを前提にすると経済学の「サンク・コスト」という概念が、頭では理解されても実際にはなかなか納得されない理由の一部が説明できるような気がする。「いままでにかかった費用はサンク・コストとして、将来の収支のみを考えましょう」といわれても、良かれ悪しかれ我々の意思決定にはそのような考え方とは相いれない側面があるのかもしれない。
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「ロスに直面した場合にリスク愛好的になる」というロジックは個人の選択に限らず、企業や国等にも適用できるようにも思われる。
⇒例:例えば企業の損失隠しの件で、「確実な損失」と「損失をリカバーできる確率のあるギャンブル」があった場合に後者を選択し、より損失をひろげる、という類の事例
⇒例:敗戦の色が濃い戦争をおこなっている国が一か八かを目論んでリスク愛好的な選択(突撃や戦線の拡大?)を行うd
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このようにプロスペクト理論は新しい知見を与えるが、カーネマンは問題点も指摘していて、プロスペクト理論では選択の結果に伴う"失望"や"後悔"といった概念を上手く扱えないとのこと(効用理論でも扱えないが)。ここらへんは理論のフロンティアなのだろう。
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この理論の紹介の後、カーネマンはリスク政策やフレーミングといった項目を扱っている。そのなかでは上記の人間の意思決定を前提にして、合理的な意思決定を助けるための制度についても述べており、(前回も述べたが)プロスペクト理論や行動経済学は政府等の個人の選択への介入を許容する立場・政策と親和性が高いのだろう。

2012年1月11日水曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow-②

前回紹介したように本書は5部からなっているが、全体には以下のように3つの大きなテーマがある。今回は1つ目のテーマ(2つのシステム)について要約し、感想を付言する。
  1. 2つのシステム
  2. 2種類の人間
  3. 2人の自己
【2つのシステム】
カーネマンは人間の判断・意思決定には以下の2つの思考システムがそれぞれ違った形で影響を与えるとしている*。
*なおこの2つのシステムは理解のための便宜上の比喩であり、実際に脳内にこのようなシステムが独立して備わっているわけではない
  1. システム1: 早い (fast) 思考、無意識に働く思考、普段意識せずに働いており、瞬間的な判断(mental "shortcuts")を行う。使用するのにエネルギーを必要としない。システム2が働いている場面でも影響を及ぼしている。
  2. システム2: 遅い (slow) 思考、意識的に働かせないと働かない思考。理由付け、論証、統計/確率的思考などをおこなうさいに使われる。使うのに多くのエネルギーを多くの消費する。怠け者(lazy)であり、できるだけ働きたくない。
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【システム1の働き】
カーネマンによれば、我々の脳内では通常無意識にシステム1が働いているが、システム1はいろいろな特徴をもっている。以下本で挙げられている例をいくつか挙げてみる。
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1.<瞬間判断>
システム1は往々にしてイメージや情報に対して瞬時の判断をくだす。例えば以下の2つの線分を見ると左のほうが長いと瞬時に判断する。

⇒実際には両者は同じ長さだが、同じ長さだと結論づけるためにはよく眺めるか、定規なりで測る必要があるが、通常我々はそんな手間はかけず瞬時に判断し、検証は行わない。
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2.<情報/イメージの合成>
以下に2つの文字を並べる。
バナナ       嘔吐
多くの人は2つの文字を見ると同時にバナナと嘔吐を結びつけたイメージを自動的に思い浮かべる。
⇒システム1は無意識に、目の前にある情報を合成してイメージをつくりだす。そして多くの場合それにあわせたストーリーをつくりだす(以下の3を参照)。

3.<手に入る情報から外部の出来事に秩序を与えるストーリーをつくりだす>
カーネマンはタレブの「ブラック・スワン」にでてくるストーリーを紹介している。
フセインがイラクで捕まった日の朝、安全資産である米国債の価格が上昇した。それをうけてブルームバーグ(金融ニュース配信社)が以下のニュースを配信した。
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"米国債上昇:フセインの逮捕はテロリズムの脅威に歯止めをかけない可能性(Hussein Capture May Not Curb Terrorism)"
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30分後、債券価格が下落したさいに、以下のニュースが配信された。
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"米国債下落:フセインの逮捕により危険資産への選好が上昇"
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⇒「フセインの逮捕」はその日のメインイベントであり、システム1はそれを使い、「債券価格の値動きの裏にある原因」について互いに矛盾するストーリーがつくりあげた。
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これらは本で紹介されているシステム1の機能(の一部)であり、瞬間的かつ無意識に我々の思考を規定する。システム1はエネルギーをセーブして迅速な意思決定(したがって効率的)を可能にし、進化の過程で有利に働いた。
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【システム1がつくりだす判断のバイアス】
上のようなシステム1の性質は、多くの場合効率的であるが、同時に我々の判断にある種の偏り(バイアス)をもたらす。以下2例を挙げる。
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1. 以下のAとBに関して、一目見て判断するとき我々はどちらに好意を抱くだろうか。

A-賢明-勤勉-衝動的-批判的-頑固-嫉妬深い
B-嫉妬深い-頑固-批判的-衝動的-勤勉-賢明
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⇒通常の人はAを好むが、AとBを示すのに使われる単語は同一で並び方だけが異なる。システム1により最初にあらわれる性質は後にあらわれるものよりも大きなウェイトが付与される。システム1はAの最初のポジティブな性質(賢明、勤勉)から瞬時に良いイメージ・ストーリーをつくりだし、それ以降のネガティブな情報を無視する。Bについてはその反対でネガティブなイメージがつくられ、ポジティブな側面は無視される。
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2. 次の背景を読んだ後、リンダという女性の現在についてのシナリオを選ぶ場合、どちらがありそうだろうか。
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背景:リンダは31歳であり、独身で、遠慮せずにものを言い、とても聡明である。彼女は哲学を専攻した。学生として、彼女は差別と社会正義について関心を抱き、反原発運動にも参加した。
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Q:現在のリンダについて以下のどちらがありそうか?
1.リンダは銀行の窓口係である。
2.リンダは銀行の窓口係であり、フェミニスト運動に積極的に参加している。
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⇒テストを受けた大部分の学生は2を選んだが、統計的に考えると、2である確率は1よりも低い(ちなみに2つの選択肢の間に無関係な選択肢をいれると2を選ぶ確率は一層高くなる)。システム1が背景からリンダについてのイメージをつくり(活発で社会問題に関心をもつ独身女性)、そのイメージに沿ったストーリーをつくることができる答え(フェミニスト運動に参加)が選ばれる。このさいにシステム2による確率の検証等は無視されがち。
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【雑感】
以上2つのシステムの働きとそれがもたらすバイアスについてごく一部を紹介した。興味深いことに、カーネマンはシステム1がもたらすバイアスについて、多くの場面でよいものである、と言っている。我々の思考がこのような成り立ちをしている以上、システム1がもたらすバイアスをなくすことはできない。少数のバイアスは意識することでなくすことができる(例えばリンダの問題では確率的思考を学習する)かもしれないが、実際はカーネマンはそれにもかなり悲観的である(本では「人は自分のことを評価するさいには過大評価におちいりがち」、という研究も紹介されている)。システム2が四六時中動いてはいられない以上、どうしても我々の判断はバイアスを持ってしまう。
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このような習性を前提にすると、我々が前提としている制度そのものにも修正・変更の余地がでてくるかもしれない。例えばメディアリテラシーの議論などで多くの情報をきちんと選別して正しい意思決定をしよう、という意見があり、多分それが理想なのだろうが、実際はそんなことをする手間(システム2の駆動)やシステム1のバイアスを考えると、通常の人はそういう意思決定を常にはし続けられない。
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本書の後半では人の意思決定上のバイアスの存在を前提として、それを誘導するような仕組みとしてリチャード・セイラ―のNudge紹介されているが、カーネマンの議論はセイラ―/サススティーンの主張(リバタリアン・パターナリズム)と親和性が高いのだろうと思われる(行動経済学はカーネマンとトベルスキーの論文から多大な影響をうけて発展してきているので当然と考えるべきなのかもしれない)。
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なおカーネマンは心理学の出身であるが、心理学というと頭に浮かぶフロイトとかユングの名前は本書には一度もでてこない。心理学でも意思決定の分野と精神分析の分野では直接の関連がないのかもしれない。