2012年1月9日月曜日

書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow-①

"これは社会科学における記念碑的な著作であり、アダムスミスの「国富論」、ジグムンド・フロイトの「夢判断」と同じリーグに属する"
-ナシム・ニコラス・タレブ, 「ブラック・スワン」著者

"ダニエル・カーネマンは我々の時代で最も独創的で興味深い思想家の一人だ。我々が何故、そしてどのように自身の選択を行うかについて彼よりもよく理解している人物は地球上にいないかもしれない。この驚嘆すべき本のなかで彼は、一生ものの知恵をシンプルで人を惹き付け、それにもかかわらず驚くほど深いやり方で示し、分けてくれる。本書は好奇心をもつすべての人にとって必読書だ。"
-スティーブン・レーヴィット, 「やばい経済学」共著者



ダニエル・カーネマンは本書Thinking, fast and slowの序文で、本書は「会社のウォータークーラーの傍らで交わされるゴシップに資すること」を念頭において書かれたと述べている。
私は(注:ウォータークーラーの側で)人々が他人の判断・選択や、会社の新しい方針や、同僚の投資判断について話すさいに使うボキャブラリーを豊かにしたい(P1)。
なぜゴシップなのだろう?カーネマンによれば、他人の誤りを認識するのは我々自身のそれを認識するよりもはるかに簡単である(加えてはるかに面白い)うえに、より「正確な(precise)」ゴシップからよりよい意思決定には直接的な関連がある。
時として判断をする人にとっては、自身の内のためらいがちな疑念に耳を傾けるよりも、目の前のゴシップ好きや将来の批評家の声のほうが上手く想像できることがある。自分を批評する者達が洗練されフェアであると信じ、自分の判断が結果だけではなく過程によって判断されると思われるとき、人々はよりよい選択を行うだろう(以上P418)。
人々が意思決定のさいに犯す誤りには特有のパターンがあり、より豊かで、正確な言葉でそれらを捉えることで我々のゴシップは豊かになる、とカーネマンは言う。
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本書は2011年に発売され、New York TimesやThe Economist等の複数のレビューでBest book of the yearに選ばれ、評判を呼んだ本であり、人間の意思決定のメカニズムを扱っている。日本語版はまだでていないがいずれ発売されるだろう。
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著者のカーネマンは現在プリンストン大学の心理学の教授である。カーネマンはイスラエル人であり、イスラエルで心理学を学んで以来、イスラエルと米国で心理学(意思決定)に関する研究を行ってきた。カーネマンは経済学者ではないが2002年にノーベル経済学賞を受賞した(共同受賞者はバーノン・スミス)。なお長年にわたりカーネマンの共同研究者だったエイモス・トベルスキーは1996年に死去した。本書はトベルスキーに捧げられており、本書のなかでもカーネマンとトベルスキーの出会いや共同研究の様子が語られている。
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本書は5部構成であり36章からなっている。
  1. 第一部:2つのシステム
  2. 第二部:認知バイアス
  3. 第三部:自信過剰
  4. 第四部:選択
  5. 第五部:2つの自己
このほかに付録としてカーネマンがトベルスキーとともに発表した論文が2本載っている("Judgement under uncertainity""Choices, Values, and Frames")。
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なお、400ページ以上ある大部の本だが、文章はわかりやすく書かれており(ゴシップに使えるように?)、本文には経済学や心理学等の著書(例えばフロイトの「夢判断」のような)に見られるような難解な箇所はない。
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次回から何回かに分けて本書の内容を紹介していくが、今回はマイケル・ルイス(「ライアーズ・ポーカー」、「マネーボール」、「世紀の空売り」等の著者)がVANITY FAIRに載せた本書の書評から興味深い部分を抜粋してみる。
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カーネマンと「マネー・ボール」】
・・・The paper that resulted five years later, the abovementioned “Prospect Theory,” not only proved that one of the central premises of economics was seriously flawed—the so-called utility theory, “based on elementary rules (axioms) of rationality”—but also spawned a sub-field of economics known as behavioral economics. This field attracted the interest of a Harvard undergraduate named Paul DePodesta. With a mind prepared to view markets and human decision-making as less than perfectly rational, DePodesta had gone into sports management, been hired by Billy Beane to work for the Oakland A’s, and proceeded to exploit the unreason of baseball experts. A dotted line connected the Israeli psychologists to what would become a revolution in sports management. 
・・・上述の「プロスペクト理論」として5年後に結実した論文は合理性に関する基本的な規則の上に築かれた効用理論と呼ばれる経済学の中心となる前提の一つに重大な欠陥があることを示しただけでなく、行動経済学として知られる経済学の一分野を産み出した。この分野はポール・デポデスタ(Paul DePodesta)という名前のハーバード大学の学部生の関心を引き付けた。市場と人間の意思決定は完全に合理的なものではないと見なす精神をもって、デポデスタはスポーツ・マネジメントに進み、オークランド・アスレチックスのビリー・ビーンに雇われ、野球界の専門家達の不合理さにつけこむことを推し進めた。運命の点線がイスラエルの心理学者たち(注:カーネマンとトベルスキー)とスポーツ・マネジメントの革命となるものとを結びつけた。
【カーネマンとノーベル賞】
・・・He opened the door wearing hiking shorts and a shirt not tucked into them, we shook hands, and I said something along the lines of what an honor it was to meet him. He just looked at me a little strangely and said, “Ah, you mean the Nobel. This Nobel Prize stuff, don’t take it too seriously.”
・・・ハイキング用のショートパンツと裾をそこに入れていないシャツを着た彼がドアを開けた。私は、彼に会えてとても光栄だ、といった類のことを言った。彼は少し怪訝そうに私を見て言った。「あっ、ノーベル賞のことかい。このノーベル賞についてはね、あんまり真剣に考えないでくれ。」
【カーネマンの人生】
He was born in 1934 and grew up a Jew in France during the German occupation. His boyhood had been punctuated by dramatic examples of the unpredictability of human behavior and the role of accident in life. His father was captured in a German dragnet that sent many French Jews to die in concentration camps—but then, at the last moment, he was mysteriously released. With his parents and his sister, Danny fled from Paris to the South of France and then to Limoges, where they lived in a chicken coop at the back of a rural pub. One evening he violated the curfew for Jews, and found himself face-to-face in the street with a man in the black uniform of the German SS. The man picked him up and hugged him, then showed him a picture of his own little boy and gave him money. Later in the war, after his family had disguised their Jewish identity, he watched a young Frenchman, a Nazi collaborator and passionate anti-Semite, be well enough fooled by his sister’s disguise to fall in love with her. (“After the Liberation she took enormous pleasure in finding him and letting him know he had fallen in love with a Jew.”) For a time his father held a job, but it was a long bus ride from the chicken coop, and he was away during the week. On weekends Danny and his mother would watch the bus stop from their house, waiting for his father’s bus to arrive. Each time was a cliff-hanger: he knew his father was in constant danger and was never sure that he would come home. “I remember waiting with my mother, and as we waited we darned socks,” he said. “And so darning socks for me has always been an incredibly anxious activity.” 
・・・彼は1934年に生まれ、ドイツ占領下のフランスでユダヤ人として成長した。彼の少年時代は人間行動の予測しがたさと人生における偶然の役割を示すドラマチックな出来事により強調されている。彼の父親は多くのフランスのユダヤ人を強制収容所に送り、死なせてきたドイツの捜査網にとらえられたが、最後の瞬間に釈放された。両親、姉とともにダニー(注:カーネマン)はパリからフランス南部、そしてリモージュに逃亡した。そこで彼らは地元のパブの裏にあった鶏舎に住んでいた。ある夜彼はユダヤ人の戒厳令を破って外出したところ、道で黒服を着たドイツSSの男と対面した。その男は彼を持ち上げ、ハグし、自分の小さな男の子の写真を見せ、彼にお金をくれた。戦争の末期、彼の家族がユダヤ人としての出自を偽装した後、彼はナチスの協力者であり、反ユダヤであったあるフランス人が彼の姉に恋したたために、姉の偽装にいとも簡単にごまかされたことを目にした(解放後、姉はそのフランス人を見つけ、彼がユダヤ人に恋したことを告げることを大いに楽しんだ)。しばらくして彼の父親は職をみつけたが、職場は鶏舎からバスで長い道のりであり、平日は留守にしていた。週末ダニーと母は家からバス停を眺めて、彼の父のバスが到着するのを待っていた。毎回が緊張の連続だった。彼は父が常に危険にさらされていることを知っており、家に帰ってくるかどうか分からなかった。「母と一緒に待っていたことを覚えているけど、待っている間、私たちは靴下を縫っていた。」彼は言う。「だから靴下を縫うことは私にとって、信じられないほど不安な活動なんだ。」
・・・Through it all his father suffered from diabetes, which, after the Germans arrived, went untreated. On the day of his death, in 1944, he took Danny, then 10 years old, out for a walk. “He must have known he was dying,” says Kahneman. “I remember him saying it was now time for me to become the man of the family. I was really angry about him dying. He had been good. But he had not been strong.”
・・・その間ずっと、彼の父は糖尿病で苦しんでいたが、ドイツ占領以来、それに対する治療はなされないままだった。1944年の父親が死ぬ当日、彼は当時10歳だったダニーを散歩に連れて行った。「彼は自分が死ぬことをしっていたに違いない。」、カーネマンは言う。「私は父親がこれからは私が家族の大黒柱となるんだ、と言ったことを覚えている私は彼が死んだことについてとても憤慨した。彼はいい人だった。けどれ彼は強くなかった。」
・・・After the war his mother moved the family to what was then Palestine and would soon become Israel, where he became first a platoon commander in the Israeli Defense Forces and then a professor of psychology. It apparently never seriously occurred to him to become anything else. He was always bookish, precocious, and curious about what made people tick. His wartime experience may or may not have heightened his curiosity about the inner workings of the human mind; at any rate, he’s reluctant to give the Germans too much credit for his career choice. “People say your childhood has a big influence on who you become,” he says. “I’m not at all sure that’s true.” 
・・・戦争のあと、母親は家族をつれて当時のパレスチナ、そしてすぐにイスラエルとなる地域に向かった。彼は最初イスラエル防衛軍の小隊の指揮官になった後、心理学の教授になった。他の職業につくという考えは彼の頭には決してうかばなかったように思える。彼はいつも本好きで、早熟で、何が人々を動かすのかについて興味を持っていた。戦争時代の経験は、人の頭の中の働きに対する彼の好奇心を高めたかもしれないし、高めなかったかもしれない。いずれにせよ彼は自分のキャリア選択における当時のドイツ人の役割を大きく見積もりたがらない。「少年時代は人の将来の職業について大きな影響をもつという。」とカーネマンは言う。「それが本当なのかどうか私にはまったくわからない。
【カーネマンと本書(Thinking, fast and slow)】
・・・He was working on a book, he said. It would be both intellectual memoir and an attempt to teach people how to think. As he was the world’s leading authority on his subject, and a lot of people would pay hard cash to learn how to think, this sounded promising enough to me. He disagreed: he was certain his book would end in miserable failure. He wasn’t even sure that he should be writing a book, and it was probably just a vanity project for a washed-up old man, an unfinished task he would use to convince himself that he still had something to do, right up until the moment he died. 
・・・今は本を書いている、と彼(注:カーネマン)は言った。その本は知識人としての自伝であり、同時に人々にどのように考えるべきか教えることを目的にしている。彼は彼の専門分野においては世界的な権威であり、どのように考えるべきかについては多くの人々がお金を払うであろうから、この本は十分見込みがありそうに私には思えた。彼はそうは思わなかった。彼は自身の本が悲惨な失敗に終わることを確信していた。彼は彼が本を書くべきかについてさえ確信がなかった。その本は多分、もう使い物にならない老人が虚栄心を満たすためだけの仕事であり、それを利用することで死の瞬間までまだ何かすることがあるということを自身に納得させるための未完の仕事である(注:と彼は考えていた)。
・・・That’s when he did the thing that I find not just peculiar and unusual but possibly unique in the history of human literary suffering. He called a young psychologist he knew well and asked him to find four experts in the field of judgment and decision-making, and offer them $2,000 each to read his book and tell him if he should quit writing it. “I wanted to know, basically, whether it would destroy my reputation,” he says. He wanted his reviewers to remain anonymous, so they might trash his book without fear of retribution. The endlessly self-questioning author was now paying people to write nasty reviews of his work. The reviews came in, but they were glowing. “By this time it got so ridiculous to quit again,” he says, “I just finished it.” Which of course doesn’t mean that he likes it. “I know it is an old man’s book,” he says. “And I’ve had all my life a concept of what an old man’s book is. And now I know why old men write old man’s books. My line about old men is that they can see the forest, but that’s because they have lost the ability to see the trees.
・・・それから彼はただ単に奇妙であり普通でないばかりでなく、人間の文芸に関する苦闘の歴史のなかでおそらく唯一かもしれないことを行った。彼は彼がよく知る若い心理学者を呼び、判断と意思決定の分野で4人の専門家を見つけてくるように頼んだ。そしてその専門家それぞれに対し、彼の本を読んで、もし彼がそれを書くのをやめるべきであれば彼にそう告げるようにと2,000ドルを提供した。「つまり、私はこの本が私の評判を台無しにしそうかどうかを知りたいんだ。」と彼は言う。彼は彼の本をレビューする人が仕返しを恐れることなくその本を貶すことができるよう、レビューア―が匿名であることを望んだ。倦むことのない自己懐疑を抱く著者は人々に、自身の本に対し不快なレビューを書くようにお金を払っているのだ。レビューが届いたが、それらは賞賛のレビューだった。「今となってはもう一度止めるというのは馬鹿げたことだ」、と彼はいった。「私はちょうど本を書き終えた。」。けれど彼はその本を気に入っているわけではない。彼は言う。「私はこの本が老人の本だということをわきまえている」。「私は人生を通して老人の仕事がどういうものであるかというコンセプトを得てきた。そして今、私はなぜ老人が老人の本を書くのかが分かった。老人についての私の考えを一言でいえば、彼等は森をみることができるが、それは木をみる能力を失ったからなのだ。」
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D・カーネマン @TED