2015年5月22日金曜日

【書評】 狭小邸宅 (新庄耕)


「狭小邸宅」(新庄耕)

色々な読み方ができる良い本。

社会に出たての新人が世間に翻弄されて悩みながら、何とか日々生き延びて、仕事で小さな達成を得て、恋人とかもできたりして、それでもなんだかんだ色々あって日々苦労しつつ、それでも愉快に世の中を渡っていく話しが好き。でもそういう話しはとても少ない。何故なんだろう。そういう経験をしている人は小説書く暇がないのかもしれないけど。

本書は最初から中盤にかけてはそういう小説なんだけど、ラストはハッピーエンドではない。働いて成功するのと、得た成功を慈しむのとは必要となるスキルが違うんでしょうね。

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主人子松尾は不動産会社に勤めている。特に不動産屋をやりたかったわけではなく、他に興味のある仕事もなかったため、成り行きで就職した。
ろくに就職活動をすることなく、苦し紛れに今の会社に入った。営業に配属され、とにかく家を売れと言い渡された。苦痛を覚えるようなノルマ。体を壊さずにはこなせないほどの激務、そして挨拶がわりの暴力。逃げ出さないのが不思議なぐらいヤクザな毎日だった。
だが、辞めよう辞めようと思いつつも、どういうわけか今日まで続いている。 
 職場は数字がすべて。売れない営業マンはゴミ扱い。
「おかしいよなぁ、何で会社に金を入れない学生気分のお前に給料ださなきゃなんでぇんだ、何で案内ひとつとれないお前に女の尻追っかけるための軍資金こっちが出してやんなきゃいけねぇんだろ」
「お前らは営業なんだ、売る以外に存在する意味なんかねぇんだっ。売れ。売って数字で自己実現しろっ。いいじゃねえかよっ、わかりやすいじゃねぇかよ、こんなにわかりやすく自分を表現できるなんて幸せじゃねぇかよ、他の部署見てみろ、経理の奴らは自己表現できねぇんだ、可哀そうだろ、可哀そうじゃねえかよ。売るだけだ、売るだけでお前らは認められるんだっ、こんなにわけのわからねぇ世の中でこんなにわかりやすいやり方で認められるなんて幸せじゃねえかよ、最高に幸せじゃねぇかよ。」
松尾は売れない営業マンで上司から辞めろと言われながらな何故か仕事は辞めない。辞めないことに明確な理由はないが。松尾の上司は言う。
「ごく稀にお前みたいな訳のわからん奴が間違えて入ってくる。遊ぶ金にしろ、借金にしろ、金が動機ならまだ救いようがある、金のために必死になって働く。人参ぶら下げれて汗をかくのは自然だし、悪いことじゃない。人参に興味がなくても売る力のある奴はいる、口がうまいとか、信用されやすいとか、度胸があるとか、星があるとか、いずれにせよ売れるんだから誰も文句は言わない。問題は、強い動機もなく、売れもしない、お前みたいな奴だ。強い動機もないくせに全く使えない。大概、そんな奴はこっちが何も言わなくても勝手に消えてくれる。当然だ、売れない限り居心地が悪い。だが、何が面白いのか、お前はしがみつく」
「自意識が強く、観念的で、理想や言い訳ばかり並べ立てる。それでいて肝心の目の前にある現実をなめる。一見それらしい顔をしておいて、腹の中では拝金主義だ何だといって不動産屋を見下している。家ひとつまともに売れないくせに、不動産屋のことをわかった気になってそれれらしい顔をする。客の顔色を窺い、媚びへつらって客に安い優しさを見せることが仕事だと思ってる」
「お前、自分のことを特別だと思ってるだろ」 
「いや、お前は思ってる、自分は特別な存在だと思ってる。自分には大きな可能性が残されていて、いつか自分は何者かになるとどこかで思ってる。俺はお前のことが嫌いでも憎いわけでもない、事実を事実として言う。お前は特別でも何でもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」 
ここまで言われても松尾は辞めない。もはや意地とはいえない諦観交じりの乾いた執念。
その日から物件と蒲田の駅前で看板を掲げた。毎日夜十一時過ぎまで立ちつづけた。
本格的な夏に入り、連日のように暑い日がつづいた。日陰にいても噴出すように汗が流れてくる。三十分も看板を掲げて立ちつづければ、シャツはもちろん、スーツまで汗でびっしょりと濡れた。
もはや蒲田の物件を売ることなどどうでもよくなっていた。だが、立ちつづけることをやめる気にはならなかった。意地や見栄はとうに消え、ただ自分という人間をでたらめに酷使してみたかった。じりじりと太陽に焼かれ、このまま跡形もなく消えてしまいそうになる。その熟れた感覚は不思議と悪いものではなかった。
ここで不思議なまぐれ当たりが起きる。松尾は長い間社内の誰も売れなかった蒲田の物件を売る。徐々に徐々に仕事が回りだす。以前は朝、店に行く一歩毎に気分が沈んでいたのに。
不動産の営業をしていることに変わりはなかった。にもかかわらず、少しずつ肌に接する世界が異なる貌を見せていく感覚は新鮮だった。
そして第四に、生活のリズムが変わった。以前にも増して仕事中心の生活になった。さらなる残業を厭わず、休みの日も誰よりも仕事をした。仕事が楽しいと思えた。睡眠不足は常で、ひどく疲れてもいたが、その疲れすら心地よかった。
仕事で達成感を覚えるようになりつつも、その代償として心身はぼろぼろで、ふとした瞬間、身近な友人や恋人に怒りを爆発させる。
いけない、と思った時には口が開いていた。「嘘なわけねぇだろ、カス。本当だよ。世田谷で庭付きの家なんててめぇなんかが買えるわけねぇだろ。そもそも大企業だろうと何だろうと、普通のサラリーマンじゃ一億の家なんて絶対買えない、ここにいる奴は誰ひとり買えない。どんなにあがいてもてめえらが買えるのはペンシルハウスって決まってんだよ」
そして。。 

2015年5月20日水曜日

【書評】 腰痛を根本から治す (竹谷内康修)


生まれて初めてぎっくり腰になったのを機に読んだ。著者は医大を卒業したカイロプラクターの先生。治療院が八重洲にある模様。



ちまたによくある「●日(分?)で~が治る!」という類の本ではなく、中身は腰痛について分かっていること/分かっていないことを説明し、普段の生活改善こそが根本的な対処法と指摘する硬派(?)な本。

個人的には納得感が高かったので、今後実践します。

以下、本で指摘されるいくつかのポイントを箇条書き。

<腰痛についての医学的な意見>

  • 腰痛の85%は視覚的(MRI/レントゲン)に原因箇所を特定できないので、症状の分類法すらない。
<腰痛の原因>
  • 腰痛の原因は複数存在(先天性のもの、後天性のもの)し、それぞれの重さも人それぞれ違う。
  • 但し、そうは言っても著者の長年の治療経験によると、多くの人の腰痛の原因は「日常生活での腰に悪い姿勢」と「その蓄積」
  • 腰に負担をかけるような普段の生活のなかで悪い姿勢を長期にわたり続けた結果、ある日、腰への負担が限界を超えて腰痛が発生する。
  • 特に「座っているときの姿勢」は腰に大きなインパクトを与える。
<腰痛の予防>
  • 腰痛は生活習慣病!従ってなってしまった腰痛をすぐに治す薬や治療法は存在しない。
  • 腰痛の予防には普段から腰に負担をかけないような生活習慣を続けることが大事
  • 消炎鎮痛剤(冷湿布/温湿布)や痛み止めの飲み薬はあくまで一時的な対処法。
  • グルコサミン・コンドロイチンは腰痛には効かないし、骨盤矯正でゆがみを治しせば腰痛がなおるという科学的なデータはない。


    <正しい生活習慣とは?>
    • 床に座る(あぐら/体育座り)和式の生活は腰に悪い
    • 椅子に腰掛けるさいは、体を丸めず、深く腰掛けたうえで背もたれによりかかり、背中を2点(背骨と腰)で支えるイメージで座る(車でも同様の姿勢を保つ)。
    • 従って、背もたれが直立していたり、腰の支えがない椅子は駄目。
    • 椅子に長時間座ったままは腰に悪いので、長時間座り作業をするときは30分毎に立つことで腰への負担をリセットする
    ↑は主にオフィスでの姿勢だが、著者は他に掃除機をかけるときや台所仕事をするさいの注意点もあげている。

    ちなみにくしゃみをするさいに腰が痛む場合は、既に腰が相当痛んでいるとのこと(私はくしゃみをしたらぎっくり腰になった。。。)。くしゃみのさいはできるだけ腰を折り曲げないほうがいいらしい。

    最後の章で腰にいいストレッチを挙げていて、普段の生活のなかで腰が固まったときにはやるといいとのこと。

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    こういう椅子は駄目みたい




    ストレッチをしましょう

    2015年5月19日火曜日

    【書評】 コーチ by マイケル・ルイス



    “僕はタイガー・ウッズを観るのと同じ理由で、マイケル・ルイスを読む。彼のようには決して書けないだろう。だけど 、ときどき、天才がどんなものなのか思い出すのはよいことだ。” (マルコム・グラッドウェル)

    Coachマネーボールライアーズ・ポーカーフラッシュ・ボーイズ等、ベストセラーを連発している米国の人気作家マイケル・ルイスが2005年に発表したノンフィクションであり、ルイスの少年時代の野球のコーチについての作品(ここでは英語版から文章を抜書きしたが和訳あり)。

    物語は少年時代の野球コーチ:フィッツについての思い出を作家となったルイスが回想するプロットと、現在のフィッツへの批判についてルイスが関係者にインタビューするプロットが並存する構成。

    100頁に満たない作品だが、名ストーリーテラー、ルイスの腕前が発揮された佳作。読むと自身の人生の「コーチ」を思い出すかも。「親」が果たす役割の世代論(今昔)も折り込まれており、読んだ後、誰かに色々思ったことを語りたくなるかもしれない。

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    物語はルイスが自身の母校(ニューオーリンズの学校(Isidore Newman School))についての新聞記事を見たところから始まる。

    Newman Schoolは裕福な地元の子供が通う学校だが、近年、同校の野球チームのコーチであるフィッツに対して、生徒の親から批判が寄せられている。親達はフィッツの指導の厳しさに抗議し、自分達の子供にもっとプレーをさせろと主張している。

    フィッツはルイスがNewmanの7年生(14歳)のときに移ってきて、ルイスの高校時代の野球チームのコーチとなった。

    フィッツは短気で勝利に執着するコーチだった。練習は過酷、怠慢は決して許さない。少年達は毎日倒れて動けなくなるまでスプリントを行い、試合に負ければフィッツのお説教を聞き、真っ暗闇の中、ヘッドスライディングの練習を行う(全身血まみれになる)。

    試合に勝つまで」、フィッツは練習で汚れ、おまけに血がこびり付いたユニホームを洗わせてくれない。

    血と泥まみれのユニホームを着て少年達は試合に臨む。
    Opposing teams, at first amused, became alarmed, and then, I thought, just a tiny bit scared. You could see it in their eyes, the universal fear of the lunatic. Heh, heh, heh, those eyes said, nervously, this is just a game, right?
    対戦相手は、最初は面白がって、次に心配になり、そしてそれから少し怖くなったと思う。彼等の目には誰もが持つ狂人に対する恐れが浮かんでいた。おい、おい、おい、彼等の目は心配そうに語っていた、これは単なる野球の試合だぜ?そうだろう?
    練習の中、いつしか弱小チームにこんな確信が芽生える。
    those other guys might be better than us, but there is no chance they could endure Coach Fitz
    他のチームの奴らは僕達より上手いかもしれない。だけど奴らがフィッツの指導に耐え切れるはずはない。 
    そして、チームはついに勝利する!
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    ルイスはフィッツの指導について以下のように回想する。
    We listened to the man because he had something to tell us, and us alone. Not how to play baseball, though he did that better than anyone. Not how to win, though winning was wonderful. Not even how to sacrifice. He was teaching us something far more important: how to cope with the two greatest enemies of a well-lived life, fear and failure. To make lesson stick, he made sure we encountered enough of both.
    僕たちはコーチの言うことを聞いていた。何故なら彼には僕達に、そう僕達に対してだけ伝えたい何かを持っていたから。それは野球のやり方ではなく(もっとも彼は野球のやり方を誰よりも上手く教えたけれど)、どのように勝つかでく(勝つことは素晴らしかったけど)、チームへの献身ですらなかった。彼はそれよりもずっと重要なことを僕等に教えようとしていた。良き人生のもっとも大きな障害である恐怖と失敗にどう立ち向かうかを。教訓が僕等のなかに留まるよう、彼は僕達にその両方を充分に体験させた。
    What he know-and I 'm not sure he'd ever consciously thought of it, but he knew it all the same-was that we'd never conquer the weaknesses within ourselves. We'd never win. The only glory to be had would be in the quality of the struggle .
    彼は僕達は自身の内にある弱さに勝利することはできないことを知っていた-彼自身がそれを明確に意識していたかどうかは分からないけど、それでも彼はそのことを知っていた。僕達は決して勝つことはできないだろう。僕等が勝ち取り得る唯一の栄光は、僕等が自身の弱さに立ち向かう過程にあるはずなんだ。
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    作品中では、ルイスが自身の少年時代を回想するのと並行して、次第に「子供を守るために」練習に口出しするようになった親達への対応に苦慮する現在のフィッツも語られる。

    それでも、フィッツの練習を見学し、昔と変わらずチームを鼓舞する姿を見た後、ルイスは思う。
    And that's how I left him. Largely unchanged. No longer, sadly, my baseball coach. Instead, the kind of person who might one day coach my children. And when I think of that, I become aware of a new fear: that my children might never meet up with their Fitz. Or that they will, and their father will fail to understand what he's up to.
    それから僕は彼と別れた。フィッツはほとんど変わっていなかった。悲しいことに、もう彼は僕の野球コーチではないけれど。その代わり、彼はいつか僕の子供達のコーチになるかもしれない。そして、そのことを考えるといつも僕は怖くなる。もしかしたら、僕の子供達は「彼等のフィッツ」に決してめぐり会わないかもしれない。もし会ったとしても、彼等は、そして彼等の親達は、彼がどれだけの人物なのか理解し損ねるかもしれない。
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