彼・彼女等の生は大正から昭和に入り、国家としての日本の退勢に添う形で下降していきますが、落ちぶれても龍子は最後まで龍子らしく高慢であり、物語のなかで唯一のインテリ(高等遊民)である龍子の旦那(徹吉)は後悔しながらその生涯を終えます(インテリの生涯というのは大体悲惨なものなのでしょう)。子供のころあれほど魅力的な桃子の奔放さ、無邪気さは年とともに、生活への鬱屈にとってかわられます。聖子はそもそも物語の中盤で唐突に死んでしまいます。龍子の子供たちは最後まで社会的には無気力者です。最後の食卓で龍子が抱く「この子にも期待は持てない。この子も駄目だ。」という慨嘆は悲しいながら、どこか滑稽で、そして、清清しい。
これは教養小説ではなく、ユーモアをまといつつ、ある時代のなかで、生きている人々、特に目的もなく「単に生きていく」人々を冷徹に観察したモラリスト小説です。
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文庫版の第一部が楡家の人々の華やいだ声が飛び交う生活の豊かさやおおらかさを描いているとすると、第三部で登場人物たちはおおむね単調で悲惨な生活を送ります。戦争はおおむね単調で陰惨なので、そのもとでの生活がこのようになるのは当然なのですが、著者が素晴らしいのはそのような状況のなかで、戦争の下でしか現れない、美しく、鮮烈な思考/イメージを書き残している点です。
もしかすると、基本的な生の涯に死があるという考えが、そもそもの誤りであり欺瞞なのではあるまいか。死が根本であり土台であり、生がその上に薄くかぶさっているというのが真相なのではないか。また同時に、爆弾の破片が死をもたらすというのももっともらしい欺瞞だ。それは単なるきっかけ、触媒にすぎぬ。その無味乾燥な断片によって、死がその地底の王国から解放されて蘇ってくるのだ。生は仮の姿であり、死が本来の姿なのだ。たまたま戦争という偶発時によって、それまで怠惰にたれこめていた引幕が開かれ、死はようやく暗い蔭の領土から足を踏みだし、おおっぴらな天日の下、白昼の中にまで歩みを進めるようになったまでだ。上はアメリカとの戦争が激しさを増し、東京が空襲されるようになったころ、ある登場人物が抱く感想です。村上春樹のノルウェーの森にも主人公が似たような感慨を抱く場面がありますが、この小説では特段この手の「思想」にフォーカスが当てられているわけではない。小説の中の単なる断片として上のような考えが投げ出され、以降の場面で振り返られたり、深められることはない。日本は実際に戦争をしており、空襲をうけているのだから、思想を振り返ってる暇などないんでしょうが、思想に対するこのように冷淡で即物的な扱いは、悲惨な外部世界との対比においてかえって抽象的なイメージの美しさを際出させる結果になっている。マキャベリなどに見られるように、思想というのは、往々にして、現実世界の悲惨さをバックボーンにしてその魅力、あるいは人を酔わす香気が立ち上がるものです。
東京のどこかが手ひどくやられたという報知を聞くと、彼らは閑にまかしてわざわざ焼跡を見物しに出かけた。焼跡はどれも酷似して同じように見えた。黒じみた灰と炭の累積があり、破れた水道管からちょろちょろと水が流れだしていた。黒焦げになった電柱が倒れ、電線が蜘蛛の巣のように地上にもつれていた。初めの外観と関わりなく、どの人間の内臓もそれぞれ似かよっているのと同じことであった。
敵機に対するおおらかな憎悪、ひろびろと焼けはらわれた光景に対する訳もない爽快感が、こもごもに周二に訪れた。彼は思った。なんであれ焼けてしまえば似たようなものだし、どのように生きたにせよ死んでしまえば同じようなものだ。そして、死の予感は、そのかぐわかしいとまで思われる匂いは、すぐ横手に、ごく近い未来に漂っていはしまいか。彼は焼け焦げた地面を靴先で蹴り、自分が幼いころ、自由に姉や従兄たちと箱根の山中で遊びまわったときに比較して劣らないほど、近頃にない翳りのない晴れやかな表情をしていることをまざまざと感じた。空襲で焼け払われた東京の野原に直面して感じる晴れやかさを書いたのは、なにもこの著者だけではないが、それにしてもこの場面は、美しい。
著者はこれらの場面以外に、作中で何回も、小説でしか描き出せない豊穣なイメージを現出させます。楡家の「賞与式」の場面や、子供たちが箱根で遊ぶ場面、登場人物が空襲による炎から逃げる場面等はそれ単体でもって、この小説が第一級の小説であることを証しだてています。
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北氏は後年のエッセーで「自分が書いた小説でいいのはこれだけ」といった趣旨のことを書いていますが、著者は同意しないかもしれませんが、このような作品が1冊でも書ければ小説家冥利に尽きるのでは、と思います。