ソフトバンクの今昔を扱った2本の記事を見る機会があった。
- 1本目は山根一真氏が
1984年に現代で孫正義氏(当時26歳)を扱った記事(「急成長!異能三人男が突っ走る 日本ソフトバンク・孫正義」)
- もう1本は週刊東洋経済が2010年7月にソフトバンクについて扱ったもの(「解剖!ソフトバンク大躍進」, 2010年7月24日号)
この2本の記事を比較すると、ソフトバンクという企業の膨張と孫正義という経営者の一貫した突飛さが浮き上がる。
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山根氏の記事はソフトバンクの最初期を扱ったものだが、ソフトバンクおよびそれを率いる孫正義氏が会社設立当初から相当変わった存在であったことがよくわかる。
記事の冒頭で、山根氏は昭和58年5月に行われた「日本ソフトバンクの新たなスタートを祝い-大森康彦君と孫正義君を激励する会」という集まりを紹介している。この当時孫正義氏は25歳であり、ソフトバンクは設立1年半の会社であったのだが、この集まりには三井住友銀行会長、味の素社長、ミサワホーム社長、イトーヨーカ堂会長、三井不動産社長、富士ゼロックス社長といった財界の超大物たちが千人もこぞって駆けつけた。
この記事ではソフトバンクを以下のように紹介されている。
~現在発売されているパソコンの機種は九十を下るまいとされ、普及台数は二百万台に迫ると推定されている。バスに乗り遅れまいとパソコンを買いこんだものの、その七、八割が埃をかぶっているという説もあるが、あながち嘘とも言いきれない。パソコンは単なる機械にすぎず、仕事をさせるにはソフトが必要だからだ。ステレオで言えばレコードやテープがソフトに相当する。初期には、そのソフトをユーザーがコンピューター言語を操り作らねばならなかったが、その言語をマスターできた人はユーザーの五パーセント程度であったといわれている。やがて、そういうユーザーのためにできあいのソフトが販売されるようになった。ゲームマシンやワープロ用だけなく、給与計算や財務会計などのソフトがそれである。ふつうカセットテープや磁気ディスクに書きこまれて売られるが、日本ソフトバンクは、そういうソフトを専門に扱う商社である。ソフトの開発メーカーであるソフトハウスは全国に三百社あり、ソフトを販売するショップは三千店を越える。この両者を結ぶ流通組織がかつてほとんどなかった。孫はここにビジネスを発見し、流通組織を作りあげた。(P291より引用、黒字は引用者強調)
記事は続けてソフトバンクの成長ぶりについての関係者の意見を紹介している。
「パソコンの業界はまだ始まったばかりで、何がどうなるかわからない。それだけに、怪情報も飛交っているんですよ。でも、あと三年待てばどうなるかわかる。それまでは走ろう、ということで誰もが納得するんです。日本ソフトバンクの評価も三年後でしょうね。」
記事中の孫正義氏の言葉を紹介する。
この会社は、お金が出るだけでまったく収入はないんです。会社の目的は僕がどういう事業をするべきかを考えることにありました。人がしていないこと、新しいことをして世界一になるためです。そうでなければチャレンジする意欲が湧きませんからね
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この記事から26年後、週刊東洋経済の2010年の記事は冒頭、孫正義が2010年6月25日に行った「新30年ビジョン」の発表会の様子を紹介している。
そのプレゼンテーションで孫氏は「30年以内にグループ会社を5,000社、株式時価総額を200兆にする」という目標を語った(なおこの時点のソフトバンクの時価は2兆7千億円だった)。
以下は記事中の孫氏のインタビューの中で名言(?)。
宇宙というのは中央集権構造ではない
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2つ付言:
- ソフトバンクの成長は1981年以来一環した経路をたどったわけではなく、連結営業利益の推移を見ると、まともにある程度の額の利益がでるようになったのは2005年からである(つまり創業(1981年)以来、ほぼ25年くらいは小規模な企業だった)
- 現在のソフトバンクの売上構成をみると、移動体通信とインターネット(平たく言うと携帯とヤフー)が収益の主力になっており、イーコマース(パソコン卸)は主力事業ではなくなっている
ナンシー関「雨天順延-テレビ消灯時間5」より、蛭子さんとこぶ平を休日昼下がりの旅番組(「こぶ平蛭子上海珍道中」という名前らしいです)にキャスティングすることまで許容する旅番組の爛熟(?)について:
勇気は必ずしも正義ではない。
元三井住友銀行の頭取だった西川善文氏が著した「ザ・ラストバンカー」を読んだ。銀行が絡んだ個々の案件に関し、当事者ならではの知見や考察を交えて語っており、興味深い本ではあるのだが、約300ページで著者の約40年の銀行員人生を振り返る構成なので、さすがに個別の案件についての記述は駆け足にならざるおえない。以下では印象に残った点を列挙する。
【語られていないこと】
「不良債権と寝た男」と名づけられた著者の銀行員人生は、その大半が問題融資や要対応案件の処理に忙殺された。住友銀行時代だけでも安宅産業の処理、さくら銀行との合併、磯田一郎頭取への対応、イトマン事件、不良債権の査定、GSによる増資、UFJ争奪戦、ダイエー等など盛りだくさんである。だからなのか、この本では著者が未来について構想したりする記述が少ない。本書の語りは基本的に「事件が起こる」→「これへの著者の対応や知見を述べる」といった形で進む。これは別に悪いことではないが、「ラストバンカー」といわれる日本金融界の大物ならば、「官僚と民間の関係も含めた日本の金融システムのあるべき未来」等の「大きな未来」を語る記述がもう少しあってもいいような気がした*。まあ、そもそも日本の銀行の頭取にそのようなことを求めるのはないものねだりなのかもしれないが。
*なお、念のためもちろん著者が完全に受身であったわけではなく、金融ビッグバンへの対応として投資信託の窓口販売を進めたり、元マッキンゼーの人材を雇って個人部門を強化したりといったことや、不良債権処理のための全行をあげたコスト削減を指示したり、といった著者の取り組みに関する記述はある。
また著者自身の融資で問題となった案件があったならば、どのような経緯で発生し、それをどのように処理したのかを記していただけていたら、参考になったと思う(無論著者自身の融資に問題はなかったのしれないが、失敗の研究のほうが後々の参考にはなるので)。
【磯田一郎氏に対して】
住友銀行の頭取として長く活躍し、住友の天皇といわれた磯田一郎氏に対して著者の評価は「真っ当すぎた人」。
【マッキンゼーの改革→失敗】
1978年に住友銀行は当時の磯田頭取のもと、マッキンゼーに組織変更を依頼し、マッキンゼーの提案をうけて、かなり大規模な組織変更を行い、積極姿勢を強化した。しかし著者の評価では結果としてこの組織変更は好景気のなかで現場の業務推進部隊の「やり過ぎ」をまねいた。結果としてバブル期の好景気のなかで推進力が強い現場に対してチェック機能が働かない事態に陥り、イトマン事件などで多くの問題融資を許した。1991年に今度は自行のアイデアを結集して組織を再度変更している。
【かんぽの宿と鳩山邦夫】
著者が日本郵政の社長として決定した、かんぽの宿のオリックスグループへの売却は当時の鳩山大臣によって辛らつに批判されたが、著者はこれについてかなり強い口調で反論している(よっぽど腹が立ったんでしょうね)。
北杜夫の「楡家の人々」は傑作です。大正・昭和の歴史のなか楡一族三代の運命を辿るこの作品が、三島由紀夫の言うところの「真に市民的な作品」になりえている理由の一つは、登場人物に小説のお話として収まりのよい、成熟や自己実現が用意されていないことにあると思います。彼・彼女等は場面場面での喜怒哀楽とともに、それぞれの生を生きますが、基本的に大人になるに従い成長・成熟をとげ、人生と折り合いをつけられるようにはなりません。これは別に悪いことではなく、普通に生きている市民は成長や成熟を目指したり、遂げたりはしないものであり、そのようなことを志向する人たちは、おおむね人工的な世界で生きています。小説が人工物である以上、大きなテーマの一つとして成長・成熟が挙がるのは当然ですが、それらはこの小説のテーマではない。この作品で描かれるのは一人一人の市民の生き方であり、その生き方はどれも尊いと同時に矮小なものでもある。
彼・彼女等の生は大正から昭和に入り、国家としての日本の退勢に添う形で下降していきますが、落ちぶれても龍子は最後まで龍子らしく高慢であり、物語のなかで唯一のインテリ(高等遊民)である龍子の旦那(徹吉)は後悔しながらその生涯を終えます(インテリの生涯というのは大体悲惨なものなのでしょう)。子供のころあれほど魅力的な桃子の奔放さ、無邪気さは年とともに、生活への鬱屈にとってかわられます。聖子はそもそも物語の中盤で唐突に死んでしまいます。龍子の子供たちは最後まで社会的には無気力者です。最後の食卓で龍子が抱く「この子にも期待は持てない。この子も駄目だ。」という慨嘆は悲しいながら、どこか滑稽で、そして、清清しい。
これは教養小説ではなく、ユーモアをまといつつ、ある時代のなかで、生きている人々、特に目的もなく「単に生きていく」人々を冷徹に観察したモラリスト小説です。
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文庫版の第一部が楡家の人々の華やいだ声が飛び交う生活の豊かさやおおらかさを描いているとすると、第三部で登場人物たちはおおむね単調で悲惨な生活を送ります。戦争はおおむね単調で陰惨なので、そのもとでの生活がこのようになるのは当然なのですが、著者が素晴らしいのはそのような状況のなかで、戦争の下でしか現れない、美しく、鮮烈な思考/イメージを書き残している点です。
もしかすると、基本的な生の涯に死があるという考えが、そもそもの誤りであり欺瞞なのではあるまいか。死が根本であり土台であり、生がその上に薄くかぶさっているというのが真相なのではないか。また同時に、爆弾の破片が死をもたらすというのももっともらしい欺瞞だ。それは単なるきっかけ、触媒にすぎぬ。その無味乾燥な断片によって、死がその地底の王国から解放されて蘇ってくるのだ。生は仮の姿であり、死が本来の姿なのだ。たまたま戦争という偶発時によって、それまで怠惰にたれこめていた引幕が開かれ、死はようやく暗い蔭の領土から足を踏みだし、おおっぴらな天日の下、白昼の中にまで歩みを進めるようになったまでだ。
上はアメリカとの戦争が激しさを増し、東京が空襲されるようになったころ、ある登場人物が抱く感想です。村上春樹のノルウェーの森にも主人公が似たような感慨を抱く場面がありますが、この小説では特段この手の「思想」にフォーカスが当てられているわけではない。小説の中の単なる断片として上のような考えが投げ出され、以降の場面で振り返られたり、深められることはない。日本は実際に戦争をしており、空襲をうけているのだから、思想を振り返ってる暇などないんでしょうが、思想に対するこのように冷淡で即物的な扱いは、悲惨な外部世界との対比においてかえって抽象的なイメージの美しさを際出させる結果になっている。マキャベリなどに見られるように、思想というのは、往々にして、現実世界の悲惨さをバックボーンにしてその魅力、あるいは人を酔わす香気が立ち上がるものです。
東京のどこかが手ひどくやられたという報知を聞くと、彼らは閑にまかしてわざわざ焼跡を見物しに出かけた。焼跡はどれも酷似して同じように見えた。黒じみた灰と炭の累積があり、破れた水道管からちょろちょろと水が流れだしていた。黒焦げになった電柱が倒れ、電線が蜘蛛の巣のように地上にもつれていた。初めの外観と関わりなく、どの人間の内臓もそれぞれ似かよっているのと同じことであった。
敵機に対するおおらかな憎悪、ひろびろと焼けはらわれた光景に対する訳もない爽快感が、こもごもに周二に訪れた。彼は思った。なんであれ焼けてしまえば似たようなものだし、どのように生きたにせよ死んでしまえば同じようなものだ。そして、死の予感は、そのかぐわかしいとまで思われる匂いは、すぐ横手に、ごく近い未来に漂っていはしまいか。彼は焼け焦げた地面を靴先で蹴り、自分が幼いころ、自由に姉や従兄たちと箱根の山中で遊びまわったときに比較して劣らないほど、近頃にない翳りのない晴れやかな表情をしていることをまざまざと感じた。
空襲で焼け払われた東京の野原に直面して感じる晴れやかさを書いたのは、なにもこの著者だけではないが、それにしてもこの場面は、美しい。
著者はこれらの場面以外に、作中で何回も、小説でしか描き出せない豊穣なイメージを現出させます。楡家の「賞与式」の場面や、子供たちが箱根で遊ぶ場面、登場人物が空襲による炎から逃げる場面等はそれ単体でもって、この小説が第一級の小説であることを証しだてています。
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北氏は後年のエッセーで「自分が書いた小説でいいのはこれだけ」といった趣旨のことを書いていますが、著者は同意しないかもしれませんが、このような作品が1冊でも書ければ小説家冥利に尽きるのでは、と思います。